アステリエの追憶

白沢悠

過去に争いがあろうとも

 透明で、凪いだ朝だった。遠く小鳥の声がする。古い切り株のくぼみに小さな薄紫の花が、露を抱いてうつむいている。踏み固められた土をさらに踏みしめ裏の畑へ向かう。

 娘夫婦に譲って二年目の畑はよく整えられ、彼らの人柄が表れているようで好ましい。耕されたばかりのうねが陽射しに温められてかすかな土の香りを立ち上らせる。リオンにはそれがひどくむず痒く思えた。彼が若い時分に慣れ親しんだ情景は違う類のものだった。

 ゆるい坂を少し足早に下って家に戻る。根菜の煮える温かな匂いがして、炊事場からユラが顔を出した。

「父さんは母さんを起こしてきてください」

 四十ほども歳の離れた養い子が、今や立派な炊事場の主だ。言われるがまま寝台へ向かう数歩の間、彼は幼い頃のユラをありありと思い浮かべる。昔から年少の子を可愛がっていたのは養母の影響だろうか。

「アトリ、起きて」

 覗き込みざまに連れ合いの名を呼ぶ。

 他の子供たちとは入れ違いになったのだろう、朝日が差しこむ寝台の周りは、息を呑むほど静かだ。小さな寝息が聞こえてようやく安心する。早くに目が覚めるリオンとは反対に、アトリはこのところ長く深く眠るようになっていた。神官として人の身に余る力をふるいつづけた若い頃の無理が祟ったのだと、いつだったか自嘲していた。

 それでも何度か声をかけつづけると、垂れたまぶたが持ち上がる。

「おはよう。外はいい天気だよ」

 色褪せた青眼が何度か瞬き、緩やかに焦点を合わせていった。今日も綺麗だ、とリオンは思い、それが顔に出ていたのか、アトリは呆れ顔で起き上がってさっさと子供たちの方へ向かった。目を覚ましさえすれば活動に支障がないあたり、やはり彼女の眠りは普通のものではないのかもしれない。

 アトリの姿を認めた子供たちは、ばあちゃん、と口々に歓声を上げて彼女の足元にまとわりつく。エオル――ユラの夫が彼らをたしなめるが、当のアトリの表情は柔らかい。ミア、テト、とまるで宝物を確かめるかのように名前を呼んで食卓に連れて行く。後ろで眠そうに目をこすったシテラはリオンが抱え上げて席に着かせた。そこへレハイが皿を運んできて、ノニはもう行儀よく座っている。年長の子二人を褒めてあげてから、平和だな、とリオンはありふれた感慨を覚えた。

「じいちゃんとばあちゃん、おじちゃんのところに行くんだよね」

 朝食もそこそこにテトが尋ねる。

「帰ってきたらお話いっぱい聞かせて!」

 ノニが声を上げた。もちろん、と答えると子供たちは嬉しそうに笑う。彼らも、ユラも、独り立ちして今は南隣の国に住んでいるキサも、元は身寄りをなくした子供だった。

「昔のお友達と一緒に行くんでしょう」

 穏やかに微笑んで、半ば確認のようにユラが言う。

「義兄さんたちによろしく伝えてください」

 エオルがミアにお代わりをせがまれながら軽く頭を下げた。

 今日からしばらく、リオンとアトリは旅に出る。目的地はキサのいるフェデリーム王国の港町パスチェスだ。養い子を訪ねるこの旅は、実に四十五年ぶりの、旧友たちとの旅でもある。


 見送ってくれる家族を連れて、二人は村の門へと向かう。

「おはようございます」

 若い見た目の男女がふたり待っていた。こちらに気づくと女性の方が声を上げる。その腰には見事な造りの細剣が提げられている。

「護衛の方ですか」

 ユラに尋ねられた女性は優美な微笑みを浮かべて頷く。

「はい。よろしくお願いします」

 リオンは隣に立つ男性の方を向いた。魔術師のような長衣を着た彼はアトリの様子をうかがっていて、見ると彼女は苛立たしげに土を蹴る。

「行こう」

 愛想もなく言い捨てて歩き去ろうとするアトリを追いかけ、子供たちを見返して手を振りながらリオンは村を後にした。朝風が静かに土埃を舞い上げる道を、一行は村が見えなくなるまで黙って歩く。

 人族の一生は八十年程度と言われる。その一部は祖先と交わった長命な異種族の血によるもので、だから人族の神に愛されるアトリのような神官は純粋ゆえ短命なのだとも。神の御心はさておき、この地で暮らす者は人族だけではない。螺旋の角と三百年とも言われる寿命をもつもう一つの種族を、魔物になぞらえて「魔族」と人族は呼んでいた。彼らは長きにわたり人族と共に生きてきたが、四十五年前に姿を消した。

「どうして護衛のふりをしたの」

 先導する女性の背に、アトリは刺々しい言葉を投げつける。

「それも兼ねているからです」

 子供に語り聞かせるような調子の答えが返る。彼女はティナ、魔族の父と人族の母をもつ半魔族で、数年に一度会う古い友だ。歳はリオンやアトリの六つ上だが、その姿も声も、初めて会った頃と変わらない。

「留守のうえに説明まで任せるわけにはいかない」

 一番後ろで冷静にゼルスが言った。魔族である彼は幻影を操る魔術師だったので、頭の角を隠して人族に紛れることができた。

「ふたりは変わらないね」

 懐かしさに思わず、リオンは笑う。

 人族にとって四十五年は長い。魔族と暮らしたことのない子供たちが、老いた養父母の旧友と目の前の若い男女をすぐに結びつけられないのは当然だ。まして幼い子供たちには説明も難しい。そういう理屈がアトリの機嫌を損ねることは、彼らの間ではいつものことだった。


 道中の村で宿を借りて二日後、一行はロギエラ王国南西部ハイエンに着く。リオンが今もときおり作物を売りに訪れる最寄りの町で、三方に主要な街道が伸びる交通の要衝だった。

「ティナ、これは?」

 その南門近くの雑貨屋で、彼は見慣れない薄布に目を留める。

「雨除けのがいとうです。水がかかったくらいでは濡れません」

 布なのに濡れないのか、と驚いて検めたそれは、光沢のある糸で密に織られてはいるが普通の布に見える。昔、急な雨に降られた時の、服のあのまとわりつく冷たさと重さを思い出す。

「知らないものがたくさんあるな」

 溜息混じりに店の中を見回す。たまに来ている町でも、長旅の支度をするつもりで歩くだけで、ずいぶんと違った景色が見えるらしい。あの水袋も無造作に並べられているが良い革を使っている。きっと値を聞いたら驚くことになるのだろう。

 十数年の歳月に思いを馳せた彼を、床を叩く足音が引き戻す。

「無くなったものもあるみたいだけど」

「アトリはあれが好きだったね」

 何と言われなくても分かる。彼女は昔、たまにわざと安物の干し肉を買っていた。質の悪さを覆い隠そうとする安い香料の匂いに文句を言いながらも、味を良くするために手を加えることはしなかった。

「好きってわけじゃないよ」

 アトリは顔をしかめたものの、それ以上は否定しない。

 増えた荷物の重みを確かめながらゼルスがティナの方を振り向く。

「こうなると思って近い物を探していなかったか」

「頃合いを見て渡すつもりでした」

 淡々と交わされる言葉に、あまり感情を表に出さない彼らの柔らかな一面を覗き見た気がして、リオンはまた嬉しくなる。

「そんなわざわざ探すほどのものじゃないのに」

 アトリだけがねたように呟いたが、その爪先は静かだった。


 あかりを落とした部屋の中、すぐそばで身じろぎをする気配とうめく声がした。リオンは浅い眠りから覚めて隣の寝台へ向かう。旅支度を整えた一行はハイエンで宿をとり、翌朝早くに発つ予定だった。

「眠れないのか」

 この部屋には彼とアトリしかいない。暗闇と壁一枚を隔てた向こうの友にか、それとも神にか伴侶にか、ゆるして、と震える声がする。

「あの時は、あれで良かったんだ」

 寝台に座りこむ彼女の背をさする。こんな平穏な夜には、彼女はときおり、昔の夢にうなされる。

 ――長く人族と共存した魔族は、四十五年前に姿を消した。最後の王が人族の国へ侵攻して討たれたからだ。その戦場こそがこの町ハイエン、王を人知れず討った若者は、名をリオン・アステリエという。

 勇者が魔王を倒したと人族は語る。しかしその実際は、若者の無謀と、身を隠す幻術と、恐ろしいほどの悪運による事故でしかない。リオンとアトリは友の種族から王を奪い、ふたりの友は種族の運命に従って人族の前から姿を消した。別れはアトリから切り出した。リオンを勇者にしたくなかったからだった。

 握りしめた手を開かせる。互いにしわの増えた手指は、たとえ剣を握ることがあっても、もう戦う者のそれではない。自由な旅の末、故郷とは違う村で暮らすことをリオンが選び、自分の子供をもつことをアトリが拒んだが、彼らはおおよそ平和に生きている。

「俺はずっと楽しいよ。ふたりもそれを願ってくれている」

 リオンは確かに幸せだった。ティナとゼルスだってアトリの決断に同意した。一人で背負う罪なんてどこにもないのだと、伝えると少しずつ彼女の呼吸が落ち着いていく。

「一緒に、逃げてくれてありがとう」

 静かな暗い部屋の中、そうこぼしたアトリの表情は分からない。

「俺の方こそ」

 それでもリオンは笑って彼女を見つめ返した。


 宿屋を出ると風が冷たかった。上着の前をき合わせ、すでにところどころ灯りを掲げた町並みを南に抜けて門を出る。

「あの日を思い出しますね」

 優しくもりんとした灯火のような声が、目覚めきらない草原に響く。

「今は夜明け前だ」

 ゼルスが曖昧な否定を返す。人目を避けるような出立は四十五年前の決死行にひどく似ていて、しかしあれは黄昏時のことだった。長い夜と、終わりの見えない戦いが後に控えていた。

「私たちは幸せを掴むために戦いつづけてきました」

 突然、ティナは振り返って微笑む。彼女と彼は今も、故郷を追われた魔族を守り、人族との共存を取り戻すために戦い続けている。

「皆と明るい未来をひらくことが私の幸せです。自己犠牲の果てにしかないものが彼の幸せです。私たちには長い時間と戦う理由と、何よりも勝算がありました」

 彼女が魔術で灯した光を受けて、星屑の淡金色をした髪がひるがえる。鮮紅の眼が近寄れば焼かれそうに苛烈なきらめきを宿す。アトリの靴が石畳をこする。彼女はティナのこういうところを昔から嫌っていた。

「わたしとリオンは要らなかったってこと」

「お互い様でしょう」

 変わらない眼差しを正面から受け止めたかと思いきや、煙った青眼がふいにリオンを映す。れた声が勝ち誇るように低く笑った。

「そうだね」

 昨日までの彼女は何だったのか、アトリはそれきり、晴れ晴れとした様子でティナの後に続く。アトリが嬉しそうだからと納得したリオンに向けて、後方の暗がりから静かな声が降る。

「確かに、思うところがあるのなら伝えておくべきだ」

 行く手の森を見遣ったゼルスは、彼の方からリオンと視線を合わせる。同い年にして年若い魔族の身丈は高く、隣に立たれればかなり上を向く必要があった。

「勝手な願いだが、私は君たちを巻き込みたくなかった」

 深緑の眼差しの暗さはきっと、夜の名残ばかりのためではない。

 ティナは彼の幸せを、自己犠牲の果てにしかないと評した。昔の彼は明らかに生き急いでいた。人族の勇者に味方して王を討つより前、王の狂気を察知した両親を一度に失ったその日から、あるいはもっとずっと前から、自らを罰して生きていた。

「俺は君のそういうところが悲しかったな」

 彼の穏やかで苦しげな微笑を思い出し、リオンは率直に告げる。

「でも、友達の願いなら、叶えたいものだろう」

 かつて彼らは、全員が望んで二手に別れた。しかし今は違う。揃って南西へと向かう道行きに、ようやく朝日が追いつこうとしている。

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