仮面の月

@attarimaeda

第1話

                仮面の月

                     

“ふふっ まだ眠ってるんだわ。きっと。”

辺りは暗い。夜明けはまだまだ先だ。部屋の灯りをつけてパジャマを脱ぐとクローゼットから服を取り出した。淡い紫に小さな白い花がプリントされたキャミソールワンピース。鏡に映る自分の容姿に遠い月日の過ぎ去りを想う。

 数日前のことだった。頬杖をつきながらぼんやりテレビを観ていた私の前にお母さんが笑顔で座りこう切り出したのだ。

「ねえ、渚春。来月あなたは十九歳よね。いつまでもそんな野暮ったい服着てないでさ、もっと華やいだ恰好したらどう?」

私が気のない返事を返すと「ねえ、ねえってば。」と急かされた。

「さあ、ねえ。行きましょ。お母さんと一緒に渚春にお似合いの素敵な服を買いに行きましょ。」

お母さんに腕を取られて半ば強引に買い物に連れ出されてしまった。

 姿見の中の自分。知らないうちに私も女性の身体になったみたい。胸が膨らみを増し腰のくびれが際立って見える。膝から下、足首にかけてキューっと絞られていくラインは“うん、なかなかじゃない”と自分でも思う。

「渚春、あなたの脚線バツグンなのよ。自分では気付いていないかも知れないけど。それを今までずーとパンツばかり着(は)いてるんだもの。お母さん、いつももったいないなあって思ってたの。だから今日はパンツはダメよ。スカート、そうだワンピースがいいかしら。膝上十センチ、十五センチ、いや二十センチね。渚春のセクシーな美脚で男の子たちを悩殺しちゃったら。」

お母さんのはしゃいだ声が甦る。

 キャミソールを着た私。横からの姿を鏡に映し、後ろ姿を振り返る。今なら桜色のTシャツをコーディネートすればいいかも。さすがに膝上二十センチは遠慮して膝頭が少し隠れる丈のものを選んだ。もう一度正面に戻って鏡に向かい微笑んでみる。両頬を膨らまして眉を上げたり下げたり。アッカンベーをして舌を出してみたり。でも・・・ ダメだ。

左右対称のはずなのに。両手で頬を引っ張ったり押してみてもやっぱりダメだ。右目周辺の皮膚が引きつり左右均等に動いてくれない。

 渚春は鏡から目を離し俯いてキャミソールを脱ぐと下着のままベッドにもぐりこみ膝を抱えて丸くなる。

「何ふてくされてんだよ。もういい加減にしなよ。」

「偉そうなこと言わないでよ。突然口出ししないで。今まで静かだったくせに。どうせ寝てたんでしょ。」

「眠ってなんかいないよ。僕はずーと起きて君を観てたんだ。」

「え? ずーと私を? エッチ。」

「何言ってるんだよ。僕は君で、君は僕なんだよ。今更エッチなんて。そんなことよりさあ、もうそろそろお母さんを解放させてあげたらどうなんだい。お母さんはひとりで十分苦しんだんだから。」

“そんなことあなたに言われなくても私は分かってる。本当はもっとしっかりしなくちゃいけないこと。お母さんがひとり苦しんでいること。早く安心させてやらなくちゃいけないこと。私は分かってる。あなたに言われなくても分かってるの。”


 あれから四年が経つ。渚春の両親はともに教職に就いていたがあの事故以来、ふたりの政治信条の食い違いが激しくなり離婚をした。結局母親は教師の職を捨ていまは保険の外交員をしながら渚春と一緒に暮らしている。渚春は三年以上もひきこもりを続けていた。たまりかねた母親の友人が見付けてきてくれた黄色派グループが経営する小さなイベント会社。渚春はそこで雑用のアルバイトを始めて半年が過ぎようとしていた。


 分かっているのよ。本当に。お母さんは公立中学で英語を教える教師だった。日頃から教職は私の天職だって口にするほど教えることが好きだったし教師という職業に誇りを持っていたのに。あの私の事故以来お母さんの人生は狂っちゃったの。全部私のせい。でもお母さんは絶対そんなこと口にしない。それが辛いの。

「そう、母は強しさ。でもねえ、もういい加減お母さんに甘えるのはやめたら。」

「甘えてなんかいないわよ。」

「甘えてるよ。今だって芋虫みたいに丸まっちゃってさ。メソメソしちゃって。お母さんに助けて貰いたかったんだろ。内心は。」

「そんなことない!」

「ある!」

「ない!」

「もういいんだよ。もう自分を責めるのはやめなよ。お母さんたちが離婚したのも、お母さんが教職を離れたのも君のせいなんかじゃない。仕方なかったんだ。君が君自信を責め続ければお母さんの悲しみが深くなるばかりだし、第一君のためにもならない。」

「・・・・・」

「ねえ、そろそろ君も歩き出す頃だよ。君自身の足で、胸を張って背筋を伸ばしてさ。ゆっくりでいいんだから。

いまはちょっとついてないだけさ。自信を持って前を向くんだ。」

「勝手なこと言わないで。私をこんな目に合わせたのは誰なのよ。お母さんを苦しめたのは、お母さんを学校から追い出したのは誰なのよ。みんな分かってるくせに。みんな知らない振りをして。誰も言い出さない。誰もおかしいって声をあげないじゃない。私は憎いの許せないの。そういうみんなが。」

「・・・ だったら打小人にでも頼もうか? 拝神婆にさあ、お金払ってさあ、君の憎むみんなってやつを怨み殺して貰おうか?」

「何バカなこと言ってるの。」

「そうだろ、君自身よくわからないみんなってものを憎んでどうするんだい。確かに我々が住むこの社会は変わってしまったよ。これからも変わるだろうし。いや、変わらなくちゃいけないと思うけど。そのためにはまずは君自身がしっかり自立しなくちゃいけないんじゃないのかい? 僕が言ういつまでも甘えるなってそういうことだよ。」 

「甘えてなんか・・・イナイ。」


 朝方居間に行くとお母さんは食卓にパソコンを置いて何か仕事をしていた。私の姿を見てお母さん一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど私は気付かない振りをしておいた。

「バイトに行くから。」

「あれ? 朝ごはん食べないの?」

「ううん、今日はいい。」

お母さんに背を向け靴を履こうとしたら後ろから声がした。

「渚春、キャミソールにはヒールよ。ハイヒールが嫌ならせめてローヒールのパンプスにしたら。」

渚春は顔を上げずにうつむいたまま小声で答える。

「いいの。・・・私これでいいの。」

 

 靴を履いて私が元気を絞り出し笑顔で

「それじゃ、行ってくるね。夕方には帰るから。」と言うと

「はい!行ってらっしゃい。」

いつも必ず私よりも大きな声で応えてくれるお母さん。“負けないで。”“がんばってね。“そんな気持ちが私の心に届く。私はサングラスをかけて外に出た。


 バス乗り場に向かう途中、ふと渚春の鼻先に懐かしい匂いが流れたような気がした。渚春は不意に立ち止まり周囲を窺う。後ろを歩く人が思わず立ちすくみ怪訝そうに渚春を振り向きながら通り過ぎて行った。渚春には匂いが蘇らせる記憶があった。


 あのとき、私は暗い講堂の中にいたんだ。たくさんの譜面台が置かれた講堂、譜面台の上には小さな明かりが灯っていた。窓には厚い遮光カーテンが引かれ中央にピアノが一台、その脇に指揮台が置いてあった。奥にはドラムとシンバルそれに大きなベースギターが置かれていて所在なしげに主の現れるの待っていた。デモで知り合った彼はその講堂のある大学に通う法学部の三年生。私がフルートを吹くことを知った彼は是非参加して欲しいと私を誘ったのだ。みんな手に手に楽器を持って朝早くに集まった。四~五十人はいただろうか。

 あのとき味わった高揚感を渚春は今も忘れない。上がっても上がってもまだ先に新たな高みが待っているような。まだ登り詰めていないその高みに向かって次から次に押し寄せる波に背を押されているような。神経が鋭く研ぎ澄まされながら体の奥の方から熱い蒸気が湧きだすような感覚。私たちは何度も何度も音合わせやリハーサルを繰り返した。何時間も続いた立ち作業、それでも渚春は疲れを感じなかった。空腹感すらなかった。本番の演奏を終えたそのとき、渚春の目に大輪の花火が暗い講堂いっぱいに瞬くのが見えた。生まれて初めて味わう感動だった。

 講堂を出て陽射しに一瞬たじろいだ。次第に目が慣れ見渡した光あふれる広いキャンパス。校舎や学生寮が点在する小高い丘の上、東の空に月が浮かんでいるのが見えた。

「アッ、お月さま。」

と思わず口に出したら私の隣に立っていた彼が

「まるでオレたちみたいだな。」って呟いたんだ。

 一心不乱に音合わせやリハーサルを重ね臨んだ最終収録、あのときみんなで被った白色の仮面。空に浮かぶ昼間の月、確かに似ている。撮影された動画はユーチューブにアップされ大きな反響を呼んだ。その後デモ現場でよく目にするようになる白色の仮面。仮面を被り表情を見せずに活動を続けることに渚春は強い違和感を覚えたのだった。


何以 這土地 涙再流   

どうしてこの地に涙が流されるのか

何以 令衆人 亦憤恨   

どうして皆が怒りに震えるのか

昴首 拒黙沉 吶喊聲 響透  

顔を上げ沈黙を破り叫ぶのだ

盼自由 帰於 這裡      

自由よ、再びこの地に舞い戻れと


何以 這恐懼 抹不走     

どうして恐怖が消えないのか

何以 為信念 従没退後    

どうして信じて諦めないのか

何解 血在流 但邁進聲 響透  

どうして傷ついても声を上げ前に進むのか

建自由 光輝 香港      

自由を打ち立て香港を光り輝かせるために


在晩星 墜落 彷徨午夜   

星降る夜に彷徨い歩く

迷霧裡 最遠處吹来 號角聲  

霧の中はるか遠くから聴こえてくる笛の音色

捍自由 来斎集這裡 来全方抗對  

自由のためここに集い力の限り抗うのだ

勇気 智慧 也永不滅     

勇気と英知は永久に不滅なのだから


黎明来到 要光復 這香港   

夜明けのときがやって来たここ香港に光あれ

同行兒女 為正義 時代革命  

仲間たちよ、正義のために革命を起こすのだ

祈求 民主興自由 萬世都不朽 

どうか民主と自由が永遠であるように

我願栄光帰香港        

香港が再び栄光を取り戻しますように

 

 あのとき指揮台に立った彼はこの曲は行進曲をイメージして創作したと言っていたけれど。口ずさむ私にはいつもなぜかバラードのようにせつなく聴こえる。どうしてなんだろう。私たちが悲しい終わりを迎えたから? 結局、何も変えられず皆バラバラになってしまったから? それとも? 彼からの音信が途絶えてもう三年以上が経つ。友達の噂では彼は今イギリスのロンドンで暮らしているらしい。


 そんな仮面を被り表情を他人に見せない活動はやがて制御不能に陥った。でも誰もそれを軌道修正することなくみんな流れに身を委ね激流に流されていった。やがてその激しい流れは政治の大きな力によって堰き止められ静かな湖面へと姿を変えた。湖水は恐怖の干ばつと黄金のポンプによって水位を下げ今では見るも無残な有様だ。かつてそこに自由を標榜した大きな湖があったことなど誰も信じてはくれないだろう。


 バスから眺めるこの街の風景、前とどこも少しも変わらない。人々は昔と同じ顔つきで同じ職場に向かい、同じ仕事をして同じ家に帰っていく。前と同じようにニュースを観て当たり障りのない話題を選んで友達や家族と語らい共に泣いている。私がぼんやりバスの窓に目を移すとそこには黒い大きなサングラスをかけた私自身が映っていた。耐えかねて視線を落とすと今朝履いて出たスニーカーが目に留まった。

“歩く。”私は心の中で呟く。

「そう、歩く。君は君の足で歩きだすんだ。」

「歩け、歩けってうるさいのよ。じゃどこからどこに向かって歩き出せばいいの? 

見てよ。見てちょうだい。

あの人も、あの人もあのときいたのよ。

この道をみんなで行進したのよ。私たちと一緒に。

なのにどうして、みんなあんな知らん顔して生きて行けるの? どうして以前と同じ暮らしができるの? 右も左も南も北も私にはさっぱり分からないのに。どうしてみんな方位磁石を失くしたこの街で迷わず歩いていけるの? 私には全く先が見えないの。方針のないこの街に放り出されて私はいったいどうすればいいっていうのよ。」

「それでも歩くんだ。前をしっかり見つめてかかとに伝わる君自身の重みを受け止めながら歩くんだよ。」

「いや。怖いの。怖いのよ、わたし。」

「君、覚えてるかい? あのときのこと。」

「あのとき?」

「君が僕を失った時のことさ。」

「覚えてるわけないでしょ。だって私、気を失っちゃったんだから。気が付いたらもうあなたは私の身体から無くなってたんだし。」

「僕はよ~く覚えてる。」

「何を?」

「弾が僕に命中するとき、当たるその瞬間までよ~く覚えてる。」

「・・・」

「ゴム弾さ、相手に向かって飛び出すとチューリップの花みたいにプワーって開くんだよ。それが僕に向かって飛んでくるんだ。コマ送りの画像のように僕にはきっちり観えた。ゴム弾はなにか楽し気に笑ってるようだったなあ。それが僕に命中するその瞬間、花芯から紅い舌がピューっと飛び出したのが見えたよ。」

「痛くなかった?」

「痛くなんてないさ。」

「怖かった?」

「怖くもなかった。不思議とあのとき僕は痛さも感じないし恐怖もなかった。青空が抜けるようにきれいで、街路樹の小さな葉っぱが風に揺れて木漏れ日が花びらのように輝いてた。

 当たった瞬間はパチッとスイッチが切れるみたい。でもそのあとも僕はそこにいたんだよね。だって今僕は君とこうやって交信してるんだから。」


 バスは街中を走っていく。繰り返し繰り返し巻き戻しされた映像を観るような街の景色が車窓に映し出され流れて行く。バスの屋根にぶつかるほどせり出したネオンサインの骨組み、露店の小物売り場で立ち見をしている人たち、楊枝を咥え大衆食堂から出て来た労務者風の一団や通学カバンを背負い片手に買い物かごを持った外国人メイドの後ろをスマホを覗きながら歩く子供の姿。段ボールや発泡スチロールの空箱を山のように積んだ荷車を押し歩く老婆。ああ、今お婆さんが大きな荷車を押して道を横切ろうとしてけたたましいクラクションが鳴り響いた。

“どうしてみんなあのときのことを知らないふりして生きていけるのかしら。”

「自信が持てないからあんなふうに知らない顔して生きて行くしか方法がないのさ。」

「自信がない? さっき私に自信を持って歩きだせって言ってたくせに。」

「僕が君に言ったのは、自分自身に自信を持てっていうことさ。僕たちが暮らすこの街がたとえどんなふうに変わっても自分に自信を持って生きて行く。でも住んでいるこの街がどんなふうに変わって行くか、誰にも見通すことはできない。見通す自信もない。だから何が起きてもいつも通りいつもと変わらいように生きてるんだ。」

「それって逃げてるってことじゃないの。」

「違う。自分に自信があるから。どんなことがあっても種をまいたこの地で必ず花を咲かせてみせる、そんな自信があるからこそ普段と変わらず生きられるんだと思う。」

「・・・」

「君さっき方針を持たない自分は歩き出す方角がわからない。歩き出すのが怖いって言ってただろ。」

「うん。」

「方針を手に入れるために今君がやらなくちゃならないことは心に思いつくことすべてを深く深く考えてみることだと思うよ。とりわけ自分について、どんな人生を送りたいか、どんな人間になりたいか、一生のうちにどんなことがしてみたいか。叶うか叶わないかは問題じゃないだ。まずは自分自身で深くじっくり考えてみることが大切なんだ。

ところで君は何になりたいの?」

「え? 私、突然尋ねられても。」

「ムービースター?」

「まさか。」

「それじゃ、お母さんがそうだったように中学校の先生?」

「いや! この街で教師になるのは死んでもいや。絶対にいや。」

「アハハ! そんなに剥きにならなくっても。」

「う~ん。今度ゆっくり考えてみるわ。」

「うんうん、その調子さ。ゆっくりじっくり考える。」

 バスが通りを横切る度に短冊のような小さな青空が左右の高層ビルの壁面に切り取られながら後退る。

「ねえ、訊いてもいい?」

「どうぞ。どうぞ。」

「あなたは私なんでしょ?」

「うん。僕はあの時存在を無くしたはずだけど。でも、こうして君と交信しているし。無くなったといっても以前は間違いなく君の身体の一部だったんだから。確かに僕は君でもあるはずだ。」

「だったらなぜ自分のこと僕って呼ぶの?」

「え? ああ、確かにおかしいよね。弾が当たったショックで突然変異、じゃなくて突然性転換でも起こしちゃったのかな。アハハ。変だよね。 アハハ!」

「それで、私の僕ちゃん。あなたはどんな人間になりたいのよ。どんな今後を生きて行きたいの?」

「うん? 君に問いかけた質問がそのまま自分自身への問いになるってことか。なるほどね。そうだな~。

う~ん。僕は宇宙飛行士になって木星に行ってみたいな。」

「え? そんなの無理、無理。私には絶対無理。」

「アハハ! 冗談冗談だって。そうだなあ、お医者さんかな。僕らみたいに希望を失った人たちに寄り添って道先に明かりを灯してくれる、そんなお医者さん。」

「それも無理。」

「そうかなあ、君には打って付けだと思うけど。」

「ムリムリ、絶対無理。」

「そんなことはないさ。君ならできるよ。」

「無理。」

「君なら大丈夫。もちろん今から勉強を為直さなくちゃいけないけど。だって四年間のブランクがあるんだから。でも、君なら出来る。大丈夫さ。」


 風がキャミソールの裾を揺らす。履きなれたスニーカーが歩道に歩数(ほかず)を重ねて行く。かかとに伝わる確かな私自身の重み、今渚春はそれを感じ取ることが出来る。歩く。歩け。鼓動と共に湧き上がるリズミカルなパッション。

 見上げるビルの上、西の空にあのときと同じ白い月が浮かんでいた。

“ふふっ もういらない。”

 渚春はサングラスを外した。デモで右目を失った女子中学生Aは郭渚春に戻る。道の向こうから中学生らしい女の子の一団がやって来た。ポップコーンを口に放り込みながら大きな笑い声をたてて歩いて来る。擦れ違いさま何人かがギョッと目を丸くして渚春を振り返った。一団の大きな談笑はヒソヒソ声に変わったようだ。

 構わない。

“私は郭渚春十九歳。今街の風を体に受けて歩いています。そしてこれからも歩き続けます。”


「君、お医者になりなよ。君ならきっとなれる。」

「これから先何年勉強すればいいのよ。医師になるなんて夢のまた夢よ。」

「何年かかってもいいじゃないか。お医者さんには定年なんてないんだから。焦ることはないさ。どこで働くも何年働くも君次第、一生涯続けられるさ。その内、この街も変わって行くさ。そのとき君はまた立ち上がればいいんだよ。」

「街が変わる?」

「うん。きっと変わる。君、アンペールの法則って知ってる?」

「アンペールの法則? 知らない。」

「右手の親指を突き出したグッドのサインを作るやつさ。」

「グッドのサイン、アンペールの法則? 何よ、それ?」

「今はまだみんなの目に見えないだけさ。自由を求める大きな電流は確かに流れ出したんだ。だから街もいつか必ず変わるよ。」


 私はアルバイト先の会社のドアを開け中に入る。オフィスにいるみんなが私を見た。

「おはようございます。」

「渚春!」「阿渚!」みんなが叫んだ。なかには椅子から立ち上がり拍手する者もいる。

今夜家に戻ったら調べてみよう。アンペールの法則。


「羅針盤は君の心そのものなんだ。怖がらなくてもいいんだよ。君の心のままに君は歩いて行けばいいんだ。

大丈夫。君なら必ずできる。大丈夫さ。」

遠い遠いところから渚春に確かな声が届いた。

                                  完


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