第2話 プロローグ2
翌日、大地はいつもより早い時間に登校した。何か用事や理由があるわけでもなく、ただ少し早く目が覚めたからだ。
彼の通う学校は上履きがないため、靴のまま校舎内へ入る。二年の教室がある三階まで上がり廊下を右に曲がると、少し先の方から天音が花瓶を抱えて歩いてくるのが見えた。
ライトブラウンの艶やかな髪が、まるで示し合わせたかのように窓から流れたそよ風でふわりと舞う。明るい髪色とは対照的に着崩しのない制服姿が彼女の印象を引き締めているため、メリハリはあるが決して堅いとは感じない。
「あ、平くん。おはよう」
彼女は明るい声音で挨拶をして大地の横を通りすぎた。
「おはよう」
大地は彼女の背中に挨拶を返す。
天音は大地と目が合うといつも挨拶をする。勿論、大地に限った話ではなく、学校にいる人全員にするのだろう。習慣として挨拶が身についているのだ。
それだけではなく、友達や先生、誰に対しても分け隔てなく接する。それは、あまり関わりのない大地に対しても例外ではない。一星天音とは、そのぐらい隙のない完璧超人なのだ。
そんなことを考えながら、大地は教室のドアを開けようと手を伸ばす。
その時――
「きゃっ」
突然廊下にそんな声が響いた。
大地が振り返ると、そこには制服の下半分が濡れている男子生徒と、ぺたんと座り込んだ天音の姿があった。
今この瞬間の絵面だけを見れば「変態男子生徒とそれに動揺する天音」といったところだろうか。
しかし、当然そんなわけはない。大地は状況を理解するために、しばらくそのまま見ていることに。大地がそんな判断を下すとほぼ同時――
「あ、えっと、その……ごめんなさい!」
天音が男子生徒に謝罪をした。その言葉で大地は大体の流れを理解した。きっと天音が男子生徒に誤って花瓶の水をかけてしまったのだろう。
天音にしては珍しいミスだが、いくら完璧な彼女とはいえ、転んだり手を滑らせることもあるだろう。持っている花瓶が割れていないことは不幸中の幸いだ。
「あの、大丈夫……じゃないよね、本当にごめんなさい!」
「あぁ、いや、いいけど……冷てぇ。マジ授業どうしよ……」
「そうだよね、ごめんね……」
男子生徒に再度謝罪をしながら慌てた様子の天音。あまりに予想外の出来事だったのか、彼女は硬直したまま謝り続ける。
誠心誠意謝るのは良いが、しかしそれよりも先にやることがあるだろう。完璧超人の天音にしては、らしくない対応だった。
「ちょっといいか?」
天音の異変に気づいた大地は一度教室に入って荷物を置き、必要なものを取ってからすぐに男子生徒に声を掛けた。
「替えの服あるか? 体操服とか」
「いや、今日は体育ないから持ってなくて……」
「じゃあこれ着てくれ。ジャージなら多少サイズが合わなくても大丈夫だろうけど、もしダメなようならあとで他の人から借りてほしい」
「あれ、お前今来たよな? なんでちょうど持ってんの? ……まあいいや、とにかくサンキュー」
大地からジャージを借りた男子生徒は、着替えるためにそそくさと自分の教室へ入っていった。
それを見送った大地は、ジャージと一緒に持ってきていた雑巾で床を拭き始める。
「えっとー……」
大地の一連の行動をしばらく見ていた天音が、そこでようやく反応を示した。
「一星は服濡れなかったか?」
「え? あ、うん」
「そうか、ならよかった」
天音と簡単な会話を交わしながら手早く床を拭き終えた大地は、雑巾を手洗い場でしっかり絞り、水切りラックに干す。
「それじゃあ、俺は教室戻るから。拭いたばかりでまだ床が滑るかもしれないから気をつけて」
そう言い残して教室へ戻る途中、
「待って。あの、助けてくれてありがとう。普段はこんなことないんだけど、あはは」
天音のそんな声が背中から聞こえた。
大地は尊敬する天音から感謝されたことに誇らしさを感じながらも、ずっと完璧超人だと思っていた天音も、自分と同じ年齢の女の子なのだと認識を改めた。
「周りの評価とか理想とか、一星にはいつも付き纏ってるのかもしれない。俺はそういうの気にしないから、またいつでも頼ってくれ」
大地は言ってから、なんともキザな台詞だなと少し後悔する。しかし、それでも天音の重荷を少しでも軽くしてあげたいと思っているのは事実だった。
勉強でも運動でも他を圧倒する実力を有する天音には、それだけ他者からの期待も大きくなる。その期待や重圧が彼女を押し潰してしまわないかと心配になったのだ。
だが、よく考えれば彼女は少なくとも高校に入ってからの一年間、その重圧をものともせず結果を残し続けている。
「悪い、余計な提案だった。気にしないでくれ」
大地は自分なんかの助言は天音には必要ないだろうと思い直し、教室に入っていった。
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