41 傀儡奏者①
振り下ろされた魔物が脳天に直撃する前に、海水を操る魔法とは別の魔法を並行し、対象を木っ端微塵に弾き飛ばす。
口腔内に入り込んだ塩辛さを吐き捨て、ケイデンスは地面を蹴ると、地面に横たわるスライを抱え、水槽の裏側に回り込んだ。
意識のない口元に片手を当て、心音を確かめると、まだ辛うじて生きている。
(逃す事は出来ないけれど、せめて落ち着ける場所で、他の人と一緒にもっと回復を──)
「どうして分かってくれないの、イルデロン! アタシ頑張ってるのよ! 褒めて、ねぇ褒めてよぉ!」
ベンナが、癇癪を起こした子供のように吠えた。縦横無尽に触手を振り回し、機材や水槽にぶつかって派手な音が鳴り響く。
魔法で強化された水槽のガラスすら、ひびが入って水が漏れ出していた。
ケイデンスは、薬品を覆っていた暗幕を引き寄せスライを隠し、裏口までの動線を確かめる。
距離はそう遠くないが、走り抜けられるほど甘い相手ではない。かと言って正面からまともに交戦しても、勝算を見出せなかった。
思考を巡らせる時間も満足になく、呆気なく水槽が破壊され、破片から身を守りつつ背面から飛び出す。
腰に下げた袋越しに魔石へ触れた。先程まで燃えるほど熱かったそれも、セイレーンが居なくなり、急速に冷え始めている。
そもそも港は、魔物的存在の気配が非常に希薄だ。この倉庫に運び込まれた個体くらいだろう。
詠唱歌を駆使できないケイデンスが、ベンナへ肉薄するには不利な状態だった。
(……いや、ヒースリングみたいに、……ベンナから、なら)
ケイデンスは一瞬考えついた案を、首を振って即座に否定する。
ソレは魔物と一線を画する存在だ。ヒースリングの力を借りられるのはひとえに、友人であるからに他ならない。
ここでベンナに魔力を与え、ベンナの魔力を引き出して行使する魔法を、失敗でもしたら。
「そうだわ! 分かったわ! アルテメリオンの指示なのね!」
泣き叫ぶ寸前だったベンナが、パッと態度を変えて表情を綻ばせた。
リリアリアの異名に全身の産毛が逆立ち、ケイデンスは目を見開いて息を詰める。
ベンナは動き回っていた細い触手を、徐々に己の周囲に収束させながら、片手を頬に当てその場を一回転した。
「イルデロンは
「何を……」
「アルテメリオンを黙らせちゃえばいいんだわ! ちょうど良い理由が出来て嬉しい! だって彼の娘、あのお邪魔虫の下で、アタシのイルデロンを独り占めしてるんだもの。どうにかしなくちゃって、ずっと」
意識が思考へ追いつく前に、泣き喚く赤ん坊の声が聞こえる。
飛び散っていたガラスの破片が宙を浮遊し、嬉々として回るベンナへ一斉に襲い掛かった。
ベンナが驚愕に悲鳴を上げ、触手で欠片を払い落とそうとするが、長さの足りないそれは空中をなぞっただけだ。
「あら?」
ローブの上から鋭利なガラスが幾重も突き刺さり、小柄な体が地面に倒れ込んだ。
血液の代わりに漏れた体液が布へ滲み、ベンナが触手に視線を向ければ、全て短く刈り取られている。
「…………誰に何をするんだ、ベンナ」
ケイデンスの耳に、脳の奥へ侵食するように、赤ん坊の泣き声が響いていた。
彼は魔法で変えていた骨格を元に戻し、再び苛む激痛で理性を繋ぎ止め、真っ青な顔でベンナを睨み据える。
赤ん坊の声を頼りに気配を捉え、その内側から力を引き摺り出しつつ、一歩踏み出した。
「やだイルデロン。アタシのここ、覗いているの? えっちね」
ベンナが自身の頭を両手で指し示し、恍惚に昂った顔で息を吐く。
足を止めたケイデンスは、あえてゆっくりとした呼吸を意識しながら、ベンナを見下ろした。
前髪の奥から覗く空洞が彼を捉え、脅威になど思ってもない様子で、笑みを零す。
「怒っちゃったの? どうして? だって本当のことでしょ? どうしてそんな怖い顔するの? ねぇイルデロン、アタシ頑張ってるんだよ、イルデロンに褒めて欲しくて、どうして分かってくれないの?」
ガラスの欠片で貫かれたまま、ベンナが緩慢な動作で立ち上がった。
浮かんでいた口元の笑みは、ケイデンスが近づくにつれて引き攣り始め、泣きそうに歪んで最後、口角が下がる。
「…………アタシのこと、分かってくれない人は、イルデロンじゃない」
ポツリと呟いた刹那、長いローブが翻るのと同時に、ケイデンスが魔法で
ベンナから引き出した力を使い、何十にも重ねた魔法でその怪物を捕縛する。
数十はくだらない触手に、魚を模した複数の目と、光沢のある不気味な鱗。触手の間からは、ケイデンスの身長以上もある、一対の赤子に似せた腕。
人間と海洋生物を不自然に混ぜ込んだ外見は、腐敗臭じみた悪臭を放っているのも相まって、恐怖心を刺激する。
しかしケイデンスは歯を食いしばり、ベンナを押さえる事だけに集中する。
攻防して相手になる存在ではないことなど、最早脳内から吹き飛んでいた。少しでも対処を間違えれば、待っているのは死であることなど、もう考えている余裕もなかった。
ここで何とかしなければ。
(リリアリア様のところには、死んでも行かせない……!!)
不協和音が混ざる咆哮が響き渡り、目に見えない触手が、周囲で倒れている人間に再び寄生し始める。即座に魔法で弾くが間に合わず、ベンナに動かされた人間が「うた」を歌い出した。
各々が奏でるそれは旋律も出鱈目だったが、複数人が合わさっていくことで重厚感を増し、ケイデンスの足元が陥没し始める。
(っこれは、『秘境の使徒』が使った詠唱歌に、似てる……っまずい、このままじゃ潰れる、こっちにも対処を……!?)
激しい重力の変動に膝から崩れかけ、ケイデンスが呻いた時、僅かに影が揺れた。
次いで後方で叫び声が聞こえ、歌の一部が途切れた後、背中に微かな気配が触れる。
「……少しだけ、力を貸してあげる……禁術使いの、騎士さま」
ケイデンスが初めて対峙した『秘境の使徒』、赤みがかった茶髪に色白の少女、アルト。
彼女の口から放たれた詠唱歌は、深い悲しみと、心に訴えるような憧憬を抱えた、美しい歌声だった。
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