40 怪物の港⑤
一瞬、意識が無くなったかと思えば、急激に引き戻される。
ケイデンスは内臓が移動するような遊感に血の気が引き、あまりの気持ち悪さに内容物を吐き戻した。
重力を思い出した体は地面に転がり、腹を抱えて咳き込み蹲る。
外部から無理矢理促され、自身の魔法を行使したのか。それとも咄嗟に身を守ろうとしたのか。ケイデンスは朦朧とする視界を、片腕でなんとか拭い、水槽を見上げる。
一斉に吊り照明が回復し、水槽の淵に優雅に座る影が映し出された。
ソレは切り揃えた前髪で目を覆い、輪郭を辿らせない、簡素なローブを纏って、甲高い声で笑う。ローブの下に履くのはフリルのドレスのようだが、水を含み水槽のガラス面にベッタリと張り付いている。
だが異様なのは、ドレスの中からセイレーンと初老の男を模った、触手らしき物体が飛び出していることだ。
ケイデンスが目を向けると、女児が人形遊びをするかの如く、二つの塊が顔を見合わせて笑い合う。
(……違う、あれは似せて作ってるんじゃない、……触手を人間と魔物に寄生させてるんだ……!)
「嬉しいわ! こーんな簡単に会いに来てくれるなんて! プラトヴァーニは仕事の出来る男ね、今度お礼を弾まなくちゃ!」
少女然と可愛らしく、不気味なほど陽気に、ソレははしゃいで表情を蕩けさせた。
周囲の医師から悲鳴が上がる。一瞥すれば、慌てふためき逃げる様が見えた。
突如として目前に現れた存在は、己の理解を超えた存在だ。触れずとも、声をかけずとも、人間が心の根幹に持つ恐怖に訴える。パニックになって走り出すのは、至極当然とも言えた。
しかし彼らは、倉庫の正面出入り口に辿り着く前に、一斉に立ち止まる。
(な、なんだ?)
「ダメダメ、途中で投げ出すなんて。まだ治験は終わってないんだから」
水槽に腰掛けたままのソレが、片手を軽く振って嘆息した。
状況が把握できず困惑するケイデンスは、次いで逃げ惑っていた彼らが振り返った事に、目を見開く。
濁った目に、泡を溢す口元。首の後ろでは微かに、細い触手らしき物が蠢いていた。
倉庫にいた人間は
そうしてケイデンスの事など見えていないかのように、機材の点検や散らかった薬品の掃除を始め、ケイデンスは顔を引きつらせた。
(…………まさか全員に寄生してるってか……)
まるで死霊のようだ。否、目的の為だけに動き回る、機械と言えばいいのか。
異様な光景に言葉を失うケイデンスに、ソレは水槽の淵から飛び降りた。
「会いたかったのよイルデロン。どう? アタシの能力、すごいでしょ? ねぇ褒めてイルデロン」
ケイデンスの腕に、袖の長い両腕を絡ませ、猫撫で声で囁く。
無邪気で悪気のない声に、ケイデンスは恐怖を押し殺しながら、慎重に口を開いた。
「……呼び方を知らないから、褒められないよ」
「あ! そうだったわね、ごめんなさいイルデロン。アタシはウェーベナー。でも言い難い名前でしょ? ベンナって可愛く呼んで?」
「そうか、ベンナ。すごい能力だ。これは何をしてるんだ?」
「うふふ! そうでしょそうでしょ、これはね、アタシの能力で人間を操って、イルデロンの役に立とうとしてるのよ」
「俺の役にって……」
興奮気味に話す声だけ聞けば、親しみを感じるほどだ。
怪訝な顔で問いかえせば、ベンナは厚みのある艶やかな唇で弧を描く。
「イルデロンは魔物が必要でしょ? だから魔物を治療してあげてるの」
「お、俺が? どうして?」
「え? だって魔物がいなくなったら、その禁術は使えないじゃない」
コロコロと笑い伝えられた言葉に、息をのんで沈黙を返す。
意気揚々としゃべり続けるベンナの、これまでの成果はこうだ。
戦闘で傷ついたり、闇市場で競売にかけられた魔物を、この港で秘密裏に捕縛し、倉庫で治験を繰り返す。そして無事に回復した魔物は、ケイデンスの魔法の糧にすべく、王都の方角へ開放する事を続けていたのだ。
ケイデンスが禁書を手に入れ、魔法を行使するようになった瞬間から、魔物たちの魔力が不自然に移動し始め、ベンナは嬉々として遠方から出向いてきたらしい。
それまでは余計な邪魔をされて、近寄れなかったのだと、ベンナは笑顔のまま毒づいた。
続く言葉も出ないケイデンスに、ベンナはようやく一息つくと、不思議そうに首を傾けた。
「なぁにイルデロン。どうしたの? どうしてもっと褒めてくれないの?」
「ほ、褒められるわけがないだろ、もしかして、城に魔物が入り込んでいるのは、それも原因の一つなんじゃ……」
「え? なんで? どうして? だってイルデロンは魔法が必要なんでしょ? その声でいつも魔物に魔力を与えて、奪ってるんじゃないの? どうして褒めてくれないの? アタシ、イルデロンの為に頑張ってるのよ!」
ベンナの声に雑音と不協和音が混ざってくる。長い前髪の奥から、頭蓋骨を貫通する空洞が見えた。
まずいと思っても、ケイデンスは引き下がる訳にはいかなかった。
もしここでベンナの主張を認めてしまっては、自分が目指そうとする未来に嘘をついてしまう。
(殿下の役に立つために手に入れた力で、殿下の足を引っ張る訳にはいかない)
ケイデンスはベンナを引き剥がし、深く呼吸をして意識を整える。
ベンナが触手にぶら下げている、瀕死のセイレーンが放つ、微かな揺らぎを捉えて魔法に変換した。
(細い穴から、引き抜くように)
生気のない顔で動き回る人々から、徐々に細い触手を抜き去っていく。そうやって意識を失い倒れる彼らへ、片っ端から回復魔法を施していく。
目を逸らさずこちらを見上げるベンナが、徐々に荒げた息を落ち着かせ、小さく呟いた。
「なにしてるの、イルデロン。……アタシの頑張り、無駄にするの?」
ケイデンスは震えそうになった唇を引き結び、スライの首から太い触手を魔法で引き抜く。
「……俺はそんなこと、望んでないよ。ウェーベナー」
魔力を極限まで引きずり出され、絶叫するセイレーンがケイデンスに叩きつけられるのと、禁術に動かされた水槽から溢れた水が、ベンナを飲み込んだのはほぼ同時だった。
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