38 怪物の港③
得体の知れない相手から、その名で呼ばれた時。
可能な限りやらない方が良い行為を、ケイデンスは一つ、教えられていた。
背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ケイデンスは慎重に振り返る。
視線の先には見覚えのある男性が、特に感慨もない顔でこちらを見つめていた。
(……プラトヴァーニ様の、従者……!)
叩きつけるような魔法を使う、スライと呼ばれていた老齢の従者だ。思わず腰から下げた袋越し、魔石に触れて温度を確かめる。僅かに熱を持ったそれが捕らえているのは、港を漂う微かな魔物的存在の気配だけで、それが逆に目の前で佇む存在を異質たらしめていた。
スライは嘆息混じりの息を吐いて、靴音も静かに近づいてくる。
「……ふむ。流石に学ばれているようだ。この状況で問いを飲み込むとは。ヒースリングが気にいるだけはある」
その言い方にケイデンスは、いよいよ確証を持って奥歯を噛み締めた。
間違いない。スライはヒースリングと等しい存在だった。
ケイデンスは今、顔の骨格を変えて別人の形相になっている。しかし相手が相手だけに、別人を装うことも難しい。何せヒースリングの教え通り、かの存在には
素性が分からず問いかける行為は、恐怖と好奇心の表れである。
心に隙間を作り、ソレらの存在に入り込む時間を与える、危険な言葉なのだと。
ケイデンスは今、物理的に火力のある強い魔法が使えない。潜入ゆえに不自然な格好とならぬよう、帯刀もしてない。
状況を打破する解決策を、目まぐるしく考える目前で、スライは立ち止まり首を左右に振った。
「安心して欲しい。君の気配が動いていたから、迎えに出向いただけだ」
「……迎え、ですか」
「そうだ。アルテメリオンの指示で、君が来てくれてよかった。
初めて聞く名前に眉を寄せるケイデンスに、スライはついてくるよう促す。言葉使いや声音は穏やかだが、言葉には強制力があった。
どのみち一対一で交戦して、ケイデンスに勝ち目がある相手ではない。
深く呼吸をして足を踏み出せば、スライは一歩前を歩きながら、どこか満足げに話を続けた。
「君と話がしたかったのは、他でもない。討伐してほしい魔物がいる」
「え……」
スライが足を進めるのは、ハルキナ公爵の屋敷とは別方向だ。
活気あふれる港を横目に通り過ぎ、煉瓦造りの倉庫が立ち並ぶ場所へと入っていく。周囲では屈強な船乗りたちが、互いに声をかけ合いつつ、物資を抱えて歩き回っていた。どうやら荷下ろしされた物資の保管所らしい。
スライは通りすがる船乗りに、適度に声をかけて進んでいく。ケイデンスも頭を下げるが、誰も疑問に思う様子がなかった。
傍目に見れば公爵家の従者が、新しい人材を派遣しに来たとでも見えるのだろう。
暫く歩いていけば、スライはケイデンスを手招きつつ、倉庫の脇で立ち止まった。
「あれを」
指差す方向を見れば、やや小さな倉庫を、明らかに船乗りではない人間が出入りしている。
腰に下げていた魔石が強い熱を持ち始め、ケイデンスは咄嗟に片手で袋を掴み押さえつけた。
スライ曰く、倉庫の前で顔を突き合わせ話し込む数人は、王家に報告した通り医師団だという。彼らは現在、この倉庫を拠点に活動を行っているらしい。
医師団と呼ぶには異様な雰囲気が漂っているが、目に見える限り医師たちは人間だろう。
問題はあの倉庫の中にいる、魔石を焼き付かせる魔物だった。
「……あの中にいる魔物を、討伐しろと?」
「ああ」
「ハルキナ公爵家の屋敷にも、同じようなモノがいるのですか」
「…………、……君、それは誰から聞いた」
首元に氷を押し付けられたような感覚に、ケイデンスは額から汗が吹き出して息を詰める。
何も答えない彼に、スライは数秒ほど思案した後、再び短く嘆息し片手で顎を摩った。
「強さを追い求める素晴らしい執念だ。『秘境の使徒』、だったか。あの骨が折れる魔法の塊を突破し、中を探ったのか。確かに屋敷にはいるが、囮のようなものだ」
「囮って……」
(まさか2体もセイレーンがいるってことか?)
地上で活動できるほど知能が高く、且つ、これほど強い力を持った魔物が、近距離で2体もいるなど正気の沙汰ではない。
顔が青褪めるケイデンスに、スライは双眸を瞬かせると、苦笑まじりに口角を上げた。
「君、それほどの力を手にしていながら、何を恐れる」
「……なんの事でしょう」
「その顔立ちは自分で変えたのだろう? 正直に言おう、驚いた。魔法の扱えない無能だなど、誰が吹聴したのか」
スライからケイデンスに対する敵意は感じられない。むしろ言動は、好意的にすら思えるほどだ。
初対面時の寡黙さが演技であったと思うほど、饒舌に口は回り笑みすら浮かべている。
戸惑うケイデンスは、しかし唾を飲み込んで乾いた喉を湿らせると、意を決し口を開いた。
「貴方は味方になってくれるのか? 俺を動かしたいなら、教えてくれ」
この存在を把握できないまま、問いを重ねる事は時に自殺行為になる。それでも確証がない状態では動けない。
スライはやはり目を丸くした後、目蓋を閉じて軽く笑った。
「イルデロン。我々がそう呼ぶ存在の、敵になることはあり得ない。それは自己嫌悪と大差ないからだ」
「……」
「我々は自己愛の塊だ。その他の生死など、存在など、不確かで不確定な現象など、心からどうでも良い。だからこそ我々は、自己である君を裏切らない。自己である君に、救いを求めるのだ」
酷く抽象的で湾曲な表現だ。
それでもスライが今、ケイデンスの味方として動いてくれることは、間違いないようである。
ひとまず懸念を思考の奥へ押しやり、ケイデンスは倉庫を再び見つめる。
そして更に状況を把握しようとした刹那、悲鳴らしき男性の声が、微かに聴覚を震わせた。
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