39 怪物の港④






 状況を把握しようと目を凝らせば、倉庫の中から男たちが飛び出してくる。

 その背後から、吸盤の付いた触手のようなものが追ってくるが、一定の距離以上は動けないらしく、地面を這いずりながら再び倉庫に戻っていった。

 対峙した事のあるクラーケン種とも、また違う。這いずった地面には、水の跡以外に僅かな肉を残していた。

 強い磯の香りと共に鼻腔へ訴えるのは、腐敗臭だろうか。


 ケイデンスが表情を歪めて片手で口を押さえると、スライが軽く肩を叩いて、物陰から歩き出す。


「え、ちょ、っと」


 迷いのない足取りに驚き、慌てて背中を追いかけると、スライに気がついた医師団の人間が頭を下げた。

 彼らは皆一様にケイデンスを見ては、ほっとした様子で胸を撫で下ろしている。

 よく分からないまま目を瞬かせると、細かい透かし模様の入った、美しい装束に身を包む男性が一人、小走りに近づいてきた。


「スライさん、彼が腕の立つ用心棒ですか?」

「ああ」

「よ、よかった、ちょうど暴れ出して、困っていたんです」


 こちらへ、と簡単に倉庫の中へ案内され、面食らう。顔を変え、服装も取り替えていたのが功を称したのか、誰も第二王女の近衛騎士だとは思っていないようだ。

 男性が一方的に話す内容から推察するに、スライは元々プラトヴァーニの命令で、この倉庫にいる魔物を抑え込める、強い魔法使いを探していたらしい。

 スライが連れてきたのなら信用できると、ケイデンスに向かって笑みを見せる男性に、ケイデンスは曖昧に笑うしかなかった。


 薄暗い倉庫内は薬品の匂いと、先ほど感じた腐敗臭が立ち込めている。加えて、先ほど暴れ回った痕跡があり、数人が魔法を用いて現場の回復に努めていた。

 何人もの人間とすれ違ったが、医師団の駐屯地というより、研究者のラボという方が的を射ている。

 注意深く周囲を探っていれば、スライが立ち止まったので顔を上げた。


 持ち込んだらしき水槽の中に居るのは、確かにセイレーンだろう。

 しかし人外的な美しさを誇る上半身は失われ、骨と皮ばかりに痩せ細っている。水槽からはみ出した下部の軟体生物も、ぼとり、と重力に従い、肉がちぎれ落ちていた。

 思わず息をのむ。

 一見すればセイレーンの死体同然だというのに、この魔物はまだ生きているのだ。


 (魔石が熱すぎて、袋が燃えそうだ。なんだってこんな……!)


 視線を巡らせれば水槽の中にはもう一つ、水底に沈んでいる人影がある。

 体格の良い、坊主頭の男性だ。絶えず口が「うた」を紡ぎ、魔法で自身の周囲に酸素を取り込んで呼吸を維持している。その腕の中には、ぐったりとしている少女の姿があった。

 秘境の使徒二人だ、と思った次には、水中を浮遊していただけのセイレーンが、眼球が零れ落ちそうなほど大きく目を見開き、金切り声を上げる。

 その凄まじい声は水を反響し、水底にいる二人に襲いかかった。


 男性が必死に少女を抱きしめ、詠唱歌を歌い続けている。しかし水中にいる以上、酸素を取り込むことに精一杯で、自分自身を防御する為の「うた」が行使できない。

 簡素な服しか着ていない男性の体は、みるみる傷つけられて、黒い水が水中に霧散した。


 あれだけの轟音なのに、水槽には何十と魔法が施してあるのか、周囲から観察している人間には無害らしい。

 ケイデンスは真っ青な顔で、平然と立っているスライに小声で訴えた。


「あれは何をしているんだ? あんなことしていたら、死んでしまう……!」

「……彼らは医師だという。患者を治療しているのだそうだ」

「治療? どこが? あれじゃまるで──」


 (どっちが、患者?)


 続く言葉を失ったケイデンスの様子に、全く気がついていない周囲が、口々に討論し始める。

 それはあの、息絶える寸前であるかのセイレーンがいつ、生命活動を維持するのか、という事だった。


 プラトヴァーニはおそらく知っている。この医師団がどのような目的で、この倉庫を拠点にしているのかを。

 彼らは魔物を治療する目的で、ここに滞在しているのだ。


 ケイデンスは深く呼吸し、徐々に揺らいだ影を捉えていく。

 そして倉庫の天井で揺れる吊り照明や、機材に繋がれた電源を一斉に消して、空間を暗闇に引き摺り込んだ。


 突然の事態に慌てた医師団たちが、隙間から漏れる灯りを頼りに、右往左往と動き出す。

 ケイデンスは己の視界に魔法をかけ、先ほどと同じ明るさまで確保すると、地面を蹴った。

 迷わず水槽に飛び込み、沈んでいた二人を魔法で引き摺り出す。その際、少女に行使していた魔法を全て解き、地面に転がり込んだ男性の方へ声をかけた。


「あそこに細長い光が見えますか? あそこが裏口です。迷わず走ってください」

「お前、なんだ、何を」

「良いから早く! その子も動けます、急いで!」

「あっ、ああ、アルト!」


 呆然と上体を起こした少女を抱き上げ、男性が指示した方へ駆けていく。

 ケイデンスが安堵したのも束の間、医師の誰かが光源を持ってきたようだ。魔法で明るさが増したそれが、倉庫内を照らし始める。

 しかしケイデンスは、水槽の中の魔物を逃してはいけないと、改めて水槽の淵に両足で乗り上げた。

 強い揺らぎに比例し吐き気が込み上げ、しかしそれを制御しようと息を吐き出す。

 

 ここへ来たのは、リリアリアの使命を果たす為。魔物に魔力も与えることも、倒れる失態も許されない。


 セイレーンの眼球がケイデンスを捉えた刹那、彼は渾身の魔法で頭部を吹き飛ばそうとして、片手で顔面を鷲掴んだ。


 (あ、れ?)


 女性を模したセイレーンの骨格にしては、面長で角ばっている。

 まるで歳を重ねた男性のようだと認識した次の瞬間、ケイデンスの耳元で、愉快げに笑う女性の声がした。


「ああ、待っていたわ、……! どう? アタシの、上手くできてた、でしょ?」


 

 



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