28 循環する魔力③




「恐ろしさを感じた隙をついて、与えるはずの魔力は奪われてしまうって事だねぇ」


 魔法を使う為に放出された魔力は、恐怖によって制御を失う。

 その積み重ねが禁術使いを蝕み、やがて魔力の循環が追いつかず枯渇していくのだ。


 ケイデンスは両手の中にある禁書を見つめ、僅かに眉を寄せる。


 魔物を前にして恐怖心を持たない事は、自身が感性豊かな人間である以上、難しい。それは魔物の造形が人間にとって、生理的嫌悪に通じる事が圧倒的に多いからだ。

 例えば見目麗しい、女人の姿を模したセイレーンであっても、華やかなのは上半身だけで、下半身は軟体生物のそれであった。

 姿形が巨大であること、不自然に歪で、動きが不規則であること。体色は淀み、人智を超えた暴力的な美しさがあること。魔物は太古より、人間の恐怖心に一番近しい存在なのだ。

 

「……恐怖心を消すことはできなくても、和らげることができれば、ケイデンスの命も危うくない……という事なのかしら」


 扇を広げて口元を隠しつつ、思案げに目線を下げるリリアリアが、小さく呟く。


「そうだねぇ。イルデロンは魔力量が多いから、そもそも前の所有者より優位なんだよ。恐怖心を飼い慣らせば、無敵にだってなれる」

「では、コーダ司書。協力してケイデンスの、魔物に対する恐怖心を軽減する策を考えましょう」

「ふふ、お断りぃ」


 意気込んで前のめりになった彼女に、ヒースリングが笑いながら袖口を左右に振った。

 拒否されると思わなかったのか、リリアリアは扇の内側で瞠目した後、微かに双眸を細める。


「まぁ……、断れる立場にいらっしゃいまして?」

「イルデロンをそそのかしたのは、反省するけどさぁ。恐怖心の軽減なんて、危ないことはダメだよぉ」

「危ない?」


 ケイデンスも揃って反芻すると、ヒースリングは下肢がずり落ちるほど、ソファーの背に大きく凭れて、己の腹の上に両手を重ねた。


「魔物に対する恐怖を感じなくなったら、それは人間じゃなくなっちゃうでしょ? 人間は正しく恐怖を感じて、対処を学んでいく生き物なんだから。……ボクはイルデロンが気に入っているから、そんな真似はさせらんないよ」


 普段通り間延びした声でありながらも、言葉尻はどこかリリアリアを責める響きがある。彼女は言葉に詰まって口を閉ざし、そのまま沈黙した。

 ケイデンスも禁書の表紙に指で触れ、汚れひとつない、真新しい革の感触に目蓋を閉じる。

 

 リリアリアの主張も理解できるし、ヒースリングの言い分も最もだろう。

 恐怖心が薄れてしまえば、人間らしい思考は淘汰されてしまいかねない。

 だが恐怖心を感じつつも、ケイデンスが自分自身を奮い立たせ、その恐怖に立ち向かい制御する方法が、上手く思い描けなかった。


 頭を悩ませる二人に、暫く様子を眺めていた友は、ふむ、と一つ頷く。


「ボクからの視点で言わせて貰えば、イルデロンを最強にしちゃうなんて、簡単だと思うけどなぁ」

「簡単?」

「そうそう。君が一番強くなる瞬間は、きっと君が一番良く分かってるでしょ」


 聞き返せば笑い声が返ってきて、ヒースリングがソファーに座り直す。

 そして片方の袖を伸ばし、リリアリアの片手に触れて、優しく数回ほど叩いた。


「あらゆる困難が、王女様を護る事に繋がると思えばいいんだよぉ。君が王女様の騎士以上に、王女様を護る決意があれば、恐怖なんてへっちゃらさ」

「え」

「まぁ」


 ほぼ同時に声を上げ、二人で顔を見合わせる。

 どことなく嬉しそうなリリアリアの表情を見ていられず、ケイデンスは顔に向かって熱が上がるのを自覚した。ヒースリングの仮説は正しいかもしれないが、本人を前に言う話ではない。

 思わず口をへの字に曲げて睨むと、友は再度、愉快げに声をあげて笑った。


 単純明快シンプルな方が、魔物と対峙する時は都合が良いのだという。

 体内を循環する魔力を放出すること自体、危険が大きいのだ。余計な思考はそれだけで、命取りになりかねない。

 自己に対する揺るぎない自信や、守り守られる相手への信頼。もしくは恐怖を凌駕するほど、耐え難い怒り。そんな迷いのない心の在り方が、禁術使いを高みに押し上げる。


 リリアリアの片手を、労わるように撫でていたヒースリングが、動きを止めてケイデンスを見る。

 それは極めて穏やかな微笑みで、同時に汽笛のような耳鳴りがした。


 

「──ほら、こんなふうに、ねぇ?」



 ケイデンスは咄嗟にリリアリアの肩を掴み、思い切り椅子ごと後ろに引き倒す。片手でヒースリングを突き飛ばしつつ、二人の前に躍り出れば、肩口に真横から衝撃が走って体が半回転した。

 背中から倒れながらも腰元の留め具を外し、引き抜いた剣は宙を裂く。視界の端でリリアリアに伸びる腕が見え、無我夢中で魔法を行使した。

 音を立てありえない方向に腕が回り、捩じ切れて吹き飛ぶ。しかし瞬時に別の箇所から生えた何かが、小柄なフード姿を支え、ソレは声もなく満面の笑みを浮かべた。


 床まで垂れる長い髪の奥で、眼球のない空洞と、鋭い歯で覆い尽くされた口腔が見える。ケイデンスが狼狽えた隙を見逃さず、人間の腹部ほど太さのある尾が、ケイデンスの腹部に叩きつけられた。

 衝撃が床まで突き抜けて息が止まり、次いで苦味が喉まで上ってきて激しく咳き込む。 

 目前で四肢は数を増やし、節足のように這いずり回り、床に倒れているリリアリアに覆い被さった。

 瞠目する彼女の頬を撫で、額を合わせて抱きしめると、そのまま己の腹の下に引き摺り込む。


「流石に限度があるだろヒースリング!! やめろ!!」 

 

 ケイデンスが怒号を張り上げた刹那、今まで感じたこともないほど急激に意識が浮上した。

 心臓から押し出された血液に乗って、体内を一気に魔力が駆け巡る衝動を、確かに自分のものとして知覚する。

 同時に何かが、己の内側を覗こうとしている不快感を認識した。


 (っやめろ、やめろやめろ、触るな、触るなっ、俺の中から奪っていくな……!!)


 口に出したのか、強く願ったのか定かではない。

 ソレがリリアリアから身を離した直後、もはや人の造形を留めていない頭部が、内側から大きく膨らんだ。


 時間が止まったかのように、静寂が当たりを包み込む。

 巨大な頭部の重さに耐えきれず、小柄な体が傾いてそのまま、潰れるように床に倒れ込んだ。


 痙攣すらしない友に、頭に血が上っていたケイデンスは、ようやく仕出かした状況に理解が追いついてくる。

 真っ青な顔で近寄り、同じく絶句して座り込むリリアリアの肩を抱きながら、恐る恐る歪な体躯に触れ──。


「っヒース」

「上出来だよぉイルデロン! 良く頑張ったねぇ!」

「うおわぁッ!?」

「きゃああ!?」


 ──ようとしたが、背後から傷ひとつないヒースリングに抱きしめられ、そのまま揃って絶叫した。


 

 


 

 


 

  



 


 

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