第八話 貪欲な者
「何やってんの、あれ?」
「タイ・カッブみたいな持ち方だね」
柳川の疑問に、塩田がボールを弄びながら呼応するようにぼやく。私はベンチでバットの握り方を確認しつつ、二人の会話に耳を傾けた。
バッターボックス前に佇む谷山の姿に、私も柳川と同じ感想を抱いていた。右手と左手の間を拳三つ分開け、必要以上にコンパクトにバットを構えている。一見ふざけた持ち方だけど、谷山の表情は至って真剣だ。付き合いは全然短いけど、あんな目つきは今年もう一回見れるか見れないか、それぐらいな気がする。
「塩田、タイ・カッブって誰? 有名な人なの?」
柳川が素朴な疑問を口にする。私も興味があったので二人の会話に耳を傾けた。
「昔のメジャーリーガーだよ。ああいう持ち方で、ヒット量産してた人」
「へー、でもそんなの真似たところで、急に打てるようになるぅ?」
「振りやすいとは思うけどね。てか、タイ・カッブは人間性がアレでめちゃくちゃ嫌われてたんだよ」
「ははっ、やっば」
会話のオチが付いたタイミングで、谷山は丁度空振りをした。いくらコンパクトに持ったところで、そりゃ元が元なら不格好になる。ベンチからはクスクスと笑い声が漏れ出してた。
「良いよ良いよー、ナイススイング!」
そんなベンチの空気もお構いなしに、火野はネクストバッターズサークルから鼓舞する。そういや火野もまあまあ浮きやすい性格だったな。
私は、火野みたいに鼓舞する気にはなれなかった。浮きたくないからってのもゼロじゃないけど、再び構える谷山の鋭い表情を見たら、なんか彼女の領域に踏み込んではいけないような気がした。それぐらい張り詰めた空気を彼女はまとっていた。
続く球はボール。その次はまた空振り。ツーストライクワンボール。それでも谷山はバットの持ち方を変えず、相手ピッチャーを睨んでいた。
ベンチにはギスギスした空気が充満してて息苦しい。
私は、谷山の漫画に嫉妬してる。けど、谷山の不幸を期待するほど堕ちてはいない。こんな気管支に悪影響を及ぼしそうな空気を教室にまで持ってこられたら私だって耐えられないさ。最悪バットにボール当てないと、マジでやばいぞ。
「たーちゃんファイト―! ボールよく見てー!」
私の気負いも知らずに、火野は無邪気に声援を送る。
相手ピッチャーから球がふんわりと投げられた。ただでさえ遅い球が、更に遅く見える。私は祈るように、その羽虫が止まりそうなくらいのスローボールの行方を追った。
「当てた‼」
小さく振られたバットは、何とかボールを捉えた。しかし打球はサードへゴロゴロとまっすぐ転がっていく。このままじゃサードゴロだ。
「頑張れたーちゃん! 腕振れぇ!」
火野は声を張り上げるが、残念なことに谷山の走りはぎこちない。全力で走ってはいるが、一目で運動音痴と分かるフォームだ。
「あーあ、駄目だこれ」
柳川の嘆息に同調しそうになった。その時だった。
「逸れた⁉」
私は思わず一歩踏み出した。サードからの投球が横に大きく逸れ、ファーストがベースから離れたのだ。おかげで谷山はセーフとなり、記録はヒットに。火野は飛び跳ねて歓声を上げ、私も自然と小さなガッツポーズが出た。
「あれ、全力じゃなきゃアウトだったよなぁ」
塩田はほくそ笑みながら、そう呟いた。その台詞を皮切りに、ベンチの空気も徐々にマイルドになっていく。
「よっしゃ! あたしも続くぜー!」
そう気合を入れた火野は、宣言通りライト線にかっ飛ばし、ノーアウト一塁二塁に。ベースの上から、私にVサインを送ってきた。
冗談半分で言った、私ら三人での逆転劇。それがまさか、私の一打にかかることになるとは……。グリップを握る手に汗がにじむ。
何とか切り替えようとピッチャーに目線を上げた時、二塁の谷山と目が合ってしまった。まだあの狼みたいな目つきをしていて、まるで私が睨まれているような気がした。
一度目をギュッと閉じ、ピントを相手ピッチャーに合わせる。余計なことは考えなくて良い。打てば良いんだ。ヒットでも何でも。そうすれば悪くは言われない。
一球目は横に外れてボール。再び構える前に、一度深呼吸を入れる。
改めて構えて、妙に長く感じる一拍の後、二球目が投げられた。
谷山のこととか、ベンチの空気とか、煩わしいことは全部忘れた。手の皮が破けるくらいバットを握り、力の限り振り抜いた。
「痛ッ!」
手の中に来た重い衝撃に、思わず声が漏れる。ベンチからは甲高い歓声が上がった。数コンマ遅れて、私は理解した。
打球は、センターの頭を越えていた。
私は慌てて走り出した。谷山も火野も、止まることなくダイヤモンドを駆け抜ける。結果、二人がホームに帰ったスリーベースヒット。
ホームベースの横では谷山と火野が抱き合って飛び跳ねている。ベンチからも黄色い声が聞こえてきて、私ははにかみつつ三つ編みを掻いた。
ま、これで谷山のミスはチャラになったかな。いやまさかあんな大見得が実現してしまうなんて、言ってみるもんだな。
その後も打線が続き私もホームに帰り、試合結果は三対一で私らの勝利となった。
「いやー、あたしら大活躍だったね! MVPってやつ?」
教室に帰る途中、火野が後ろから私と谷山の肩を抱いてきた。
「楓ちゃんもナイスバッティングだったよ! 打った時の音とかすっごい響きだった!」
「そりゃどうも。谷山もよく走ったよ」
谷山は分かりやすく頬を赤らめ、白い歯を見せた。
「そーだよ。たーちゃんよく最後まで諦めなかったね。あたしだったら打った瞬間歩いちゃうと思う」
「いやー、諦めなかったって言うか、狙ってたし」
私と火野は、ポカンと顔を見合わせた。童顔のニヤケ面から発せられた最後の言葉の意味が、理解できなかった。
「狙ってたって……何が?」
「だってあのサードの子、送球がちょっと不安定だったからさ。俺がまともに打っても塁出れないから、あの子の暴投に賭けたんだ」
ウキウキとしたテンションで、谷山は自分の策謀を語った。
谷山、やはり恐ろしい子……。
私は再び火野と目を合わせ、お互い苦笑交じりに肩をすくめた。
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