第三話 山椒は小粒でもぴりりと辛い
「何してんだろ……私」
大手ハンバーガーチェーン店、マイク・ドナルドのトイレで、私はうなだれていた。便座カバーの上に座り、閉めた鍵をただ眺める。
新学期二日目も学校は午前中で終わり、私達はマイクで漫画を見せあうことになった。谷山は朝から興奮気味で、休み時間のたびに「楽しみだね」と話しかけてきた。距離の詰め方がどう考えてもおかしい。
それはそれとして、今マイクのテーブルでは、私は火野と谷山を待たせている。別にトイレしたかったわけじゃない。ただ緊張していただけだった。そりゃ自分の作品を他人に見せるだなんて、緊張して当たり前だけどさ。だけど、私には緊張する明確な理由があった。
「最近漫画描いてないんだよこっちは……」
私は、外に聞こえてたかもしれないくらい深いため息をついた。
高校受験で筆が止まってたとはいえ、春休み期間も全然原稿に手を付けていなかった。受験期に読めなかった分漫画読んだり、できなかったゲームしまくったりしてたら、あっという間に春休みが終わってた。
たまに軽くイラスト描いたりはしてたけど、もうかれこれ半年はまともに漫画を描いていない。
このことは、火野には言ってない。言えるわけないじゃん。私のことあんな買い被ってくれてる親友に、こんなの言えるわけない。
じゃあ今日持ってきた漫画は何か。
受験が本格的に始まる前に急いで描き終えたやつだ。簡単なギャグ漫画。10ページの簡素なものだ。自分で振り返っても、無理やりな展開もあるし絵を未熟だし、本筋以外にもツッコミどころが多すぎる。
「……まあ、どうせ高校生レベルだし」
私は両頬を叩き、自分を励ました。どうせ私はプロじゃない。だったら気楽に行けばいい。変に緊張しなくたっていいんだよ。
自分に鞭打ち、トイレを出てテーブルに戻る。火野と谷山は仲良くポテトを頬張っていた。呑気なもんだなぁ。
「お帰りー。案外長かったね。お腹大丈夫?」
火野が春限定のイチゴシェイクを飲みながら尋ねてくる。
「別に。全然だから安心して」
私は火野の隣に座り、谷山と向かい合う形になる。谷山はアップルパイをむしゃむしゃしながらこっちを見つめてくるが、こいつは緊張とかしないのか? しなさそうではあるけど、本当にしてないなんてありえるのか?
「んじゃあ、私から見せるでいい?」
「もちろん! 早く見せて!」
私がリュックから原稿を取り出すよりも早く、谷山は両手を差し出す。楽しみでしょうがないらしい。同級生の漫画なんか、そんなに期待するもんじゃないのにさ。
「それより、手ぇ拭いてくれない? 谷山」
「あ、ごめんごめん。忘れてた。えへへぇ」
危うく原稿がポテトの油でベッタベタになるところだった。谷山がハンカチで手を拭いたのを確認してから、私の漫画を渡す。
「あたしにも見せてよぉ!」
火野は谷山の横に座り、一緒に原稿を覗き込む。私は心の暗雲を冷めたコーヒーでごまかしつつ、チラチラと二人の様子を窺った。
私の漫画、タイトルは『JKの変な青春』。何の捻りもないタイトルだ。ただ女子高生三人組がドタバタするだけのギャグ漫画。絵も拙いし、背景もそこまで描き込めていない。そりゃそこら辺の人達よりは上手い自信はあるけど、いざジロジロと見られたら、やっぱり恥ずかしい。
「くふふっ」
火野の笑い声に、私はちょっと顔を上げた。笑ってくれた。私の漫画で。
火野は人の弱みを笑うような奴じゃない。ましてや人が作った物を揶揄するような奴じゃない。それだけは長い付き合いから確信できる。
谷山もニコニコしながら原稿を繰っていく。谷山は普段からヘラヘラしてるから、どう思ってんのか全然読めない。でも少なくとも、嘲笑ってはないように思える。逆にこれで嘲笑ってたらサイコパス過ぎるくらい純粋な笑顔だ。
「面白いね!」
いきなり谷山が私の顔を見て白い歯を見せた。シンプルな評価に、私は一瞬その言葉を飲み込めなかった。
「このでっかいコブを押し込んだら、今度はほっぺがおっきくなっちゃうところ好き! そこをあえてツッコまずに流すだけってのも、こういうありえないのが日常的だってことが分かって面白い!」
「うん、まあ……どうも」
私は苦笑いを浮かべ、目を逸らした。こんなダイレクトに褒められるだなんて、あんまし経験なかったし。それに私の工夫を見抜いてくれてたのも、嬉しいしちょっと気恥ずかしい。
「あたしこれ好きだなぁ。この曲がり角でぶつかるやつ!」
「ああ、そこ描くの大変だったなぁ」
火野が指しているのは、主人公と友達が曲がり角でぶつかって、顔やら四肢やら体のパーツがごちゃまぜになるシーンだ。頭の中で必死にパズルしながら描いた記憶が蘇ってくる。そこだけで三日くらいはかかったところだ。
「俺もそこ好きだよ! 全体的にカートゥーンチックだね。こういう表現最近あまり見ないから、逆に新鮮」
「そういうの、ずっと好きだったから。子供っぽいかなとは思うけど」
「そんなことないよ! めっちゃ面白いって!」
前のめりになり、こんな私の作品をべた褒めしてくれる谷山。そんな彼女のあどけない顔がまぶしすぎて、私はコーヒーに逃げる。酸味が普段より強く感じた。
「じゃあ次は俺の番だね」
原稿を返してもらい、火野も私の隣に戻ってくる。谷山はリュックの中を鼻歌交じりにまさぐる。
谷山が描く漫画って、いったいどんなのだろうか。確か化け猫が戦うものと言ってた。作品でも猫好きを拗らせてるのだろうか。にゃんこが可愛く猫パンチの応酬を繰り広げたりしているのだろうか。
そんな呑気なことを想像していた私は次の瞬間、全身の血が青くなる感覚に襲われた。
「これが俺の漫画、タイトルは『化け猫ウシル』!」
私が慄いたのは、絵でも、内容でも、ましてやタイトルでもなかった。
ページ数だ。
谷山が差し出してきた紙の束は、明らかに私の漫画よりも厚かった。それも、少なくとも三倍以上。
「あ、ありがとう」
言葉に躓きながら、小刻みに震える手で原稿を受け取る。
「ちなみにさ……これ、全部で何ページ?」
「39ページ。でも36ページ以降はまだ下書きなんだ。今度の新人賞までには間に合わせたいんだけど」
「そう……なんだ」
乾いた返事を潤す余裕もないくらい、心臓がうるさく脈打つ。得体の知れない何かが、私を襲っていた。
「これ扉絵も上手いね。不思議な感じで」
横から火野はそう賛辞の言葉を口にする。
そう、上手いのだ。上手すぎるのだ、絵が。
一点透視図法で描かれた簡素な洋室。その中央に余裕たっぷりの表情で立つ猫耳の少年。後ろのドアは開いており、屋根もないため、外に広がる荒野と曇り空が露わになっている。しかし猫耳少年のパーカーの下だけは、青空が広がっていた。
美術の教科書で見たような、芸術的な扉絵だ。
物体、背景、キャラ、ディティール。どれをとっても画力は私とは比べることすらおこがましいくらいの腕前だ。それに独創性も高い。奇妙な世界に、思わず飲み込まれそうになるほどの魅力があった。
「これ、どっかで見たことあるような。何だったっけ……?」
「そう、ルネ・マグリット。俺の好きな画家なんだけど、参考にしたんだ」
私がかろうじて出した言葉に、谷山はあっけらかんと答える。
「こことか『脅かされた殺人者』を真似したんだ。俺が四番目に好きな絵!」
「へえ、そうなんだ」
私は止まりそうな呼吸を何とか続けながら、谷山の漫画を読み進めた。
主人公は女子高生のマナ。捨て猫であったウシルを保護し可愛がっていたが、数年前に病気で死亡。と思ったら、いきなり化け猫として自分の前に現れた。
どうやら人間に恨みを持つ化け猫の集団があり、ウシルはそいつらと戦っている。一見よくあるバトルものかと思ったが、ウシルは敵猫をぶっ殺したことをマナに褒められたがるという中々サイコパスな奴だったりして、独特の不気味さが漂っていた。
「こことか『個人的価値』を真似たんだ。あとこのキャラはダリの『ポルト・リガトの聖母』がモデル! あ、こいつはジョルジョ・デ・キリコの『The Two Masks』!」
谷山は鼻息を荒くしながら元ネタを説明してくるが、何一つ頭に入ってこない。分からないとかじゃない。ただ耳が、谷山の声を拒絶していた。
「う……血だ。ごめんあたしグロ無理ぃ」
火野は口元を抑え、私の手元から顔を引く。
「いいよいいよ。そもそも怖いの描くのが目標だったから、ちゃんと怖がってくれて嬉しいし」
「なんでそんな笑顔で、こんな漫画描けるかなぁ……」
火野と谷山の会話にも、私は入っていけなかった。ただただ、谷山の漫画に息をのむことしか出来なかった。
今にも紙から飛び出してきそうな、迫力あるアングル。コマ割りも読みやすい。シュルレアリスム全開の奇妙な化け猫たちも、見ていて飽きさせない魅力がある。台詞一つ取っても語彙力に富んでいて、私のチープな漫画とは雲泥の差だった。
「ねぇ、なんでこのウシルは血まみれで平気な顔してんの? こういうキャラ好きなの谷山は?」
「好きじゃなかったら描かないよぉ。えへへ」
「……なんか、たーちゃん見る目変わったわ」
二人の会話も、聞こえてはいるが全然頭に入ってこなかった。
なんで? なんでこんな漫画が描けんだよ? 私と同じで15年くらいしか生きてないんだろ? 高校受験だってあったのに、それなのに、どうしてこんなに差があるんだよ。
「ねえ、楓ちゃん」
「え?」
谷山の声に、私は我に返った。原稿から顔を上げ、谷山のクリっとした目と視線がかち合う。
「楓ちゃんの感想聞きたいなー。どう? 面白い?」
ニヒヒっと白い歯を見せる谷山。面白いかって? 面白いに決まってんだろ、こんなの。プロ目の前だよ。よく私の漫画面白いって言えたな。
「えっと……その……」
私は原稿に視線を落とし、無理やり口角を上げて笑顔を取り繕った。二人にバレないよう、必死に平然を装った。
春だってのに、寒気で指がかじかむ。呼吸も苦しくなってきた。何か大切なことを忘れてしまったような不安感に、体が蝕まれていく。
頭が回らない。焦点もぶれる。心臓が締め付けられる。どうしちゃったんだよ私? なんでこんなに体がおかしくなるんだよ。
すっかり渇き切った口を開け、私は掠れた声を力の限り絞り出した。
「ちょっと……斜めゴマ使いすぎかな」
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