第16話 海がみたい④ 綾

──三日前、

渡くんの頼まれごとを終えたあとのこと。

私はまた彷徨っている。閑散とした街外れの深夜の道をタクシーを探しながら歩いていた。


私は玄関の鏡の前で涙に削られてできた頬の溝をファンデーションで埋めて、普段手を抜いているくせにリップまでもまじまじと色艶を確認しながら誰かへの当てつけのように塗り直し、現実に抗うように渡くんのアパートを出た。


渡くんのアパート近くのコンビニに寄り、レジ前に並んでいた時は別人のように気を取り直したつもりでいた。

小さなボトルの白ワインをスマートフォンで決済したとき、無事に写真資料をメールで受信した渡くんから『ありがとう、助かりました』とラインが入っているのに気がついた。店員さんに「レジ袋は入りません」と丁寧に微笑んでワインのボトルを受け取って、コンビニを出た先で『よかった、仕事、無理しないでね』とだけ返事をした。


道路脇に同じ間隔で並んでいるポールの先端のかがり火はごま粒ように遥か先の急カーブしたところに集まり白くぼやけて見える。私はそうやってお昼に食べたおにぎりに振ってあったごま粒ことを、無理やりに連想した自分の思考回路にうんざりする。

たわいもないことを考えようよ──そんな風に私が頭の中で囁いてしまうと、直面した現実から逃げるように、なるべく私に負荷がかからないように次第に感受性がわざとらしく平凡で緊張感のない脇道の思考回路に逃げ込んでゆく。


渡くんのアパートを出てからまだ二十分程しか経っていなかった。途方もない時間を歩き続けたような感覚がして、どの道を辿ってここまできたのか、徘徊の記憶を正しく逆再生できそうもない。無意識に道を選んでここまで歩いてきてしまっている。


昼食を最後に、今日はほとんど何も食べていない体に浸透し始めた少量のワインで、じわじわとまごつき始めた全身の細胞が私の足どりまで鈍感にして、ついに、道の側溝の隙間にヒールの細い足が落ちた。


私の膝はガクンと抜け、冷たいアスファルトの地面に勢いよく手をついた。買ったばかりの小さなワインボトルは手をすり抜けて足元の金属の側溝と衝突して甲高い音を鳴らす。勢いよく寝転んだボトルの中身がドクドクと脈を打ちながら溢れ出て、四つん這いになった私の眼下で半分どこかへ消えてなくなった。無機質なアスファルトの地面がチクチクと、私の手の平を急速に冷やしてゆく。


渡くんのアパートの玄関で、今日ずっと履いていた仕事用のパンプスをもう一度手に取らずに、その隣に見つけたお気に入りの堅いヒールを選んでしまったせいだ。二年経っても新品のように艶を保っていた青いエナメルに今ついたばかりの引っ掻き傷があることを、うつ伏せの体勢を起こしながら膝を抱えたときに見つけた。渡くんの家に寂しく置かれているヒールを見つけて、今日はこれで凛々と歩いて家路につくイメージが妙にしっくりきて、そうしようと思った。

またひくひくと頬が震え始めようとしている。手のひらについた小砂利や砂を払いながら「寒い……」と私は呟いた。そうやってまた、ごまかしている。


暗い視界のなかに、渡くんのパソコンで見た指輪とパンケーキの記憶が差し込む。でもそれはアパートを出た後から何度も繰り返し考えていた事だった。今度は頭の中のもっと広い部屋、もっとゆっくり考えることのできる場所を見つけてそこでもう一度、渡くんのパソコンに映し出された写真を思い出す。もしかしたら、どこぞの女の人の清純なブラウスの袖ぐらいは映り込んでいたかもしれないと、疑いを持って思い出す。

いや、確かそうだった気がする。そんな気がしてきた。

記憶が憶測で輪郭を無くし、濁ってゆく。


思いしか、渡くんには知らない誰かが側にいたと思う。それを知って私はなぜか泣く。渡くんとはいつか離れようと思っていたはずなのに。

指輪を送る相手は一体誰なのだろう。それがもしも私だったとしても、残酷なのは変わらない。残酷──それは私と渡くんどちらにとって、より残酷な事なのだろうか。


シャツにいつのまにか付いていた油汚れのシミみたいに胸に居座る感情の矛盾を今になって初めて確認するように、ヒールのかかとにくっきりと入った傷の線を、夜道にぺたんと座り込んで人差し指で撫でながら見ていたときだった。側で路にくたびれて落ちて、たわんでいたニットコートのポケットの中でスマートフォンが静かに震えた。


『ちなみに僕は176cmです』


届いたメッセージを見て私は首を傾げた。そしてゆっくりと思い出す。

──そういえば私の身長、ついさっきジュゼッペに教えたんだった。

これまで、と言っても極端に短いやり取りしかなかったジュゼッペとの交信の中で、一番どうでも良い私のメッセージにジュゼッペは律儀に返信をしたのだと思うとおかしくて、ひくひくと痙攣する頬と一緒に腹筋が震えた。

そしてとても自然に涙が逆さに流れた。

大きくて丸くどっぷりとした月が私の真上で雲の中を泳いでいる。

私は少しの間月の満ち欠けについて知っていることを思い出しながら、顎を上げて空を見ていた。こんなに静かで暗い夜道に浮かぶ月だけなぜあんなに明るいのだろう。いくら頭の中を探ってもその神秘的な理由を私は知らない。


車の近付いてくる音が遠く後の方から聞こえる。

私は、えい、と立ち上がって目の前が真っ白く光に埋め尽くされるまで手をまっすぐに上げながら近づいてくる車をただ茫然と待った。

車は私の真横をそのままのスピードで通り過ぎてゆく。

どうやらタクシーではないようだった。


──私はジュゼッペに返信をする。

「おお!高身長ー!ちなみにお車の特徴をお教え下さい。私、車にあまり詳しくなくて…間違えちゃうと大変なので…」



         ※


私はジュゼッペと二人並んで立っている。

可憐なピアノの演奏を終えた少年は集まってきた聴衆に囲まれて言葉をかわしたり、演奏を見ていた人たちからプレゼントを受け取ったりしている。


「さあ、旅に出よう」

と、私は隣で半開きに口元が緩み微笑んでいるジュゼッペに言った。


はっと我に帰った後でジュゼッペは「お腹すいてないですか?」と私に聞いたけれど食欲は気にならなかったので大丈夫と答えた。



ジュゼッペの使っていたパーキングは駅から歩いてすぐのところにあって、さっきまで二人で座っていたベンチのすぐ近くだった。聞いていた通りの黒い車を彼は指差して「この車です」と言った。

ジュゼッペは「鞄とコートはこちらに」と言って後ろのドアをゆっくりと開けてくれた。私が鞄を後部座席に置くと「はいどうぞ」と次は助手席のドアを開ける。

生活感のない車内だった。そのまま展示場から買い取ってきたように運転席や助手席に物や雑貨が無い。後部座席の後ろに見えていたトランクのスペースにダンボール箱が二つだけあって一つには書類のようなものが詰め込まれている。車の中にあるものはそれだけだった。

ジュゼッペがPOWERと書かれたスイッチを押すと少し後で静かに音楽が流れ始めた。それは私の知らない洋楽だったけれど凛々りりしい男の人の声が優しいメロディーをギターで弾き語っているような曲調だった。朝からの曇り空が車内をいっそう薄暗くして、これからどこかへ出かけるたくなるような陽気な天気ではないのかもしれないけれど、ドリンクホルダーに並んだ背丈の違う二つのコーヒーカップを眺めていると不思議とそれが穏やかな空で、誰かが旅の出発を願っているような、そんな風景に見えてくる。


「それでは、ゆっくりと行きますから」

ジュゼッペはそう言って笑い、優しい音楽は続いたままでゆっくりと車はパーキングの出口まで進む。


私は、お願いしますと言って会釈する。

こんな一日があるのかと、離れてゆく街の景色をジュゼッペの車の窓から見捨てながら考えていた。






































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海がみたい 三年 @imaalljinsei

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