第15話 海がみたい③ ジュゼッペ

僕は感に耐えない心地を馳せたまま青年のピアノ演奏を聴き終えた。

拍手が駅の構内に響き渡る。

漆黒のコートを羽織り、さらに同じ色のハットを被った全身真っ黒の謎の青年のピアノの演奏の腕前は言わずもがな素晴らしく星の数ほどいるであろうピアニストの中でも彼は特別に秀でているように思えた。

Rain33というアーティストらしく動画サイトの紹介文らしきものが書いてあるホワイトボードが彼の足元に置いてあるのを見つけて、僕は記憶しなければ…と思う。


数えるほどしかいなかった聴衆はこの数分の間で帯のように並び増えていた。

突然の雨の様に降り始めた拍手は波が引く様に時間をかけて消えてゆく。

綾と2人で辿り着いたこの一角は《音》だけで言えば、元の騒々しい駅の雑音の風景を徐々に取り戻してゆくけれど、少なくとも僕は、奏でられた譜面の夢幻が現実に滲み出ているように思えて、その場に立ち尽くし安堵の生唾を飲み込んだ。


「ジュゼッペ……トルナトーレ?」

綾が僕の左肩の下でそう呟いた。


「はい、そうです」

僕はその嬉しい質問に答えた。


「偶然…かな?同じ名前だね」


「いや、偶然ではないんです。名前を拝借しました。ご存じですか、この映画?」


「うん、私、モリコーネさんの作ったこの映画の曲すごく好き!」

そう言って鼻先がほんのりと赤くなっている綾を見て、僕は咄嗟とっさに陳腐な理屈仕込みの詩でこのまま映画の語り部になってしまいそうな衝動をなんとか思いとどまらせる。


綾は風の通り抜ける駅の構内で過ごしてしまって凍えただけなのかも知れないし、不意に駆け出して息が上がっただけかも知れない……。

それでも映画のラストシーンにピッタリとはまる賛辞の言葉が十年以上も見つからない僕と、同じ感情を綾もいくらか抱いている──と甚だしくも信じてしまう。僕はそれを留めていられないから──「思い出していました、映画のこと」と、それだけ綾に言った。


僕が辿っていた記憶は厳密にいえばこの映画のことではなかった。

とある夏の日、二十歳の僕は初めて「夏の夜の夢」の舞台を見て、心地よい風に吹かれていた。劇場のある池袋から下宿していた白金台のボロ家までの帰り道、

山手線の中で幼子おさなごを抱いた母親に突き刺さるオレンジ色の西日に目が眩み、発着の度に電車の中で繰り返される合図はメンデルスゾーンになった。途中、寄り道した目黒の居酒屋で一緒に演劇を目撃した友人たちに

「次の課題で提出する脚本は《溶ける》ものにしたい」

と僕は言った。

「夏の夜の夢」を《執拗に溶けゆく出来事の脆さが見せる群像劇》と僕は表現して、物語に全く関係のない虚像に物語を語らせるようなシナリオや、観客を登場する馬だか狼だかよくわからないものに乗せてしまい劇の住人にしてしまうなんてことも考えた。劇中の登場人物を現実と夢の境に迷い込ませて、真実なのか儚さなのか、愛という現象を視聴者と一緒に体験するという物語に惚れ込んでしまった若気の情熱が暴れ散らし、汗ばむハイボールのグラスがカランと音を鳴らし、友人たちの賛同する声が聞こえ始める。

そんな中で、


「ゲン君さ、それ非常につまらないんだけど」

と不機嫌そうに言った人がいた。ゲンというのは僕のあだ名であり、創作や論文を所属のゼミに提出する時に使っていたペンネームのことだ。


「大体さ、溶けるってなに?よくわからないんだけど?」

「──ほら、言葉に詰まってる。もっと具体的に説明できないの?」

彼女はテーブルの隅をグラスの底で叩きながら僕に言った。


彼女はお隣の英文学科に通っている友人Aと言った具合で、共通の友人を通して顔見知りになった程度の関係性でしかなかったが、僕の提出したワークショップの課題がたまに学部が発行している文集に掲載されたりなんかすると、それを読んだ後でこうして顔を合わせた時に話題になることがあった。しかしその日に限ってはいつもと違い、彼女は真っ赤な目をして酔いが回っているようには見えたけれど何処か冷静で鬼気迫る迫力を感じ、只事ではなく思えた。


僕は彼女の書く文章に心から憧れていた。チェーホフの短編に出てくるオーレンカという登場人物のセリフをいくつか繋いで散文にし、戦時中ピューリタニズムに苛まれながらアメリカ軍が売春禁圧を敷く中、基地で慰安婦として生きた女性たちが残した文献を丁寧にチェーホフとシンクロさせて彼女が生み出した、艶めかしい女性たちの物語はとても同じ年月を生きた人には思ないほど大人びていて、その完成度と説得力に度肝を抜かれた。


その隣に掲載されている僕の提出した論文の題目ときたら「キャットウーマンとバットマンの深層心理考察」なるもので、今では目も当てられない程、幼稚なものだった。それほどかけ離れたところで現実を見つめながら生きているように見えた彼女が僕に目鯨を立てる理由は今もわからない。


その後で僕は仲間に弁護されながらうまく彼女に僕の思いを説明したような気もする。しかし彼女は最後まで仏頂面で納得していないような表情で終始僕を睨みつけた。



不思議なことに、それだけ僕をまくし立てた彼女はその晩、小汚い白金台の僕のアパートについて来た。僕の家を女の子が訪れるなんてあの頃は想像もできていなかったので「家に泊めて」と彼女が言ってきた時の僕は心底驚いたはずだ。目黒から僕の家までの塵一つ落ちていない高級住宅街の隙間を、深夜まで営業しているディスカウント店で買ったよくわからないメーカーの発泡酒とレンタルビデオ屋の袋を下げながら彼女と手を繋いで歩いて帰った記憶がある。酔いが回りながらも意気消沈している僕に、


「ゲンくんは可愛いね。あたしの言うことなんて気にしなければ良いのに」

と背中を強く叩いて彼女は言った。


僕は

「そうだけどさあ、君の言っていることはもっともだよ」

項垂うなだれた。


「君の物語、今は面白くもなんともないもんねぇー、そうですよねー。はじめくーん!」

そう言って彼女は、飲み干した発泡酒の缶を潰して僕の手に下げていた買い物袋に押し込んで、次の新しい缶を掴み取った。「それ、言うなよ」と言いながら、そのとき湧き上がってくる感情がなぜこんなに喜ばしい香りがするのだろうと僕は考えていた。


テレビの明かりだけの灯ったワンルームに借りてきたDVDからけたゝましく銃声が再生されていた。


「あたしさ、男の人の下着脱がすの、初めてなんだけど…」

と僕の下腹部に顔を埋めながら彼女は言った。


「え、自分で脱いだ方がいいの?」

と僕が答えると、


「違う違う、それは違うよ。あなたはそこで私に何も答えなくていいの。思っていることをなんでも言えばいいってもんじゃないんだから。それが君と私のためになるんだよ。ホントに何もわからないんだねー」

と露わになって汗ばんでいた僕の胸のあたりをトントンとタップして笑った。


「私はね、君と違って私の中を通り過ぎるだけでいいって事がたくさんあるの。それがほとんどかもしれない。それとも何、ゲン君はこれから私とすることを一生覚えていたいって、そう思うわけ?」


少し考えた後で「思うよ…」と僕は言って

彼女の頭をぎこちなく抱き寄せた時、彼女の耳にしていたピアスが肋骨に当たってちくりとした後で、ひんやりとしていたそれはゆっくりと僕の体温に馴染んでいった。


「ひぇー、怖いこと言うね……」

確か、彼女はそんな事を言ったと思う。


チリチリと聞こえてくる朝方の蝉が鳴く声を久々に聞いた気がした。女の人に鳴き声がもう一つあって、それはあまりにも現実離れしていると初めて知った朝だった。



僕たちは一睡もせずに映画の中のシチリアの風景を裸のまま薄いタオルケットにくるまって見ていた。

ラストシーンを迎えた時、

彼女の首に巻きついていた僕の腕の上に彼女の涙が伝ってきた。得体のしれない魅力を持った人がこんなふうに泣くのだと知って僕はとても驚いた。僕は何も言えずにエンドロールとその涙が流れ落ちるまでそのままでいた。


それから彼女が留学するまでの2年間、

強いて言えばあの晩から、毎日のように二人で過ごしていたはずなのに彼女がビール以外のものを褒めているのを聞いたことがない。

たしか、最後に交わした言葉は「またね」だったと思う。意外と普通だ。





「思い出していました、映画のこと」

僕は綾に言った。


「私もそうだよ」

綾もそう言って鼻をすすった、ような気がした。


演奏を終えた青年が立ち上がると写真や握手を求める数人の女子高生たちが彼をあっという間にとり囲み青年はそれに快く応じている。もしかしたらもうすでに界隈では名の知れた人なのかも知れない。群がる人たちが少なくなる様子はなく、どんどんと増えてゆくのを見て僕は納得した。



「さあ、旅に出よう」

綾はふーっと息を吐いた後、そう言った。


「お腹空いてないですか?」

僕が聞くと綾は「全然、空かない!」と答えてへらへらと笑った。

13時を回った松本駅の中央の改札口にはいよいよ人が溢れている。

今日はここから一体どれぐらいの人たちが出かけてゆくのだろう?


僕はそんなことを考えながら綾と車を停めているパーキングの方へ歩き始めた。






















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