第14話 海がみたい② 綾
松本駅の喧噪の中に一筋流れるピアノの旋律。
迷った挙句に少し勇気を出して
その重い足取りの最初の一歩踏み出しミラノへ向かう私のように
それは、おそるおそる音楽へ姿を変えながら、はじまってゆく。
そういえば──昔、私は
行動や決断が間違っていなければ、
世界のざわめきが突然、
必然さを装った奇跡として
その姿を見せてくれると、確信に近いものを持っていた気がする。
「うわぁ……モリコーネだ……」
と、閃光の中を駆け足で突き抜ける私の隣で、
息を切らしながら満面の笑顔でジュゼッペは言った。
この人に出会うべくして出会ったのだと、
このささやかな偶然に心が躍って早足を進めた。
※
2人で飛び乗った
松本駅のエスカレーターの幅はいつもより狭く感じた。
構内に向かって隙間を縫うように地上から冷気が流れ込んで、ぶらり放り出された私の両手が
今日、渡くんは側にいない。
代わりに
彼はぴんと
黒髪でこ
肌は写真と変わらず白く澄んでいて、
くっきりとした二重の瞼から長いまつ毛が艶やかに伸びて綺麗な顔をした人だった。
すれ違う女の子達が、彼をちらちらと盗み見ているのが解るぐらい華がある人。
ついさっき初めて言葉を交わしたそんな彼は、
一つも私に「なぜ?」と聞かない。
私が海を見たいと言った所以、
マッチングアプリの中にいた理由。
それをいつか問い始めてもおかしくないはずなのに、それもしないで──今日も海がみたいですか?と彼は言った。
マッチングアプリの中にいたジュゼッペと、今隣にいるその人のあいだには、少しも違和感や矛盾がなくて、私と交わした歪みのない線の上をなぞるようなメッセージ交信の、その先を今日もそのまま泳いでいるような人だと思った。
駅の二階、改札口の前にあるスターバックスはとても混んでいて、お目当ての《温かいもの》に二人で無事にありつけるのか不安に思える程だった。
「混んでますね……僕がここで並んでおくので、どこかでゆっくり待っていてください」
店先でジュゼッペはそう言って私を気遣った。
「大丈夫です。私、待つのは苦じゃないんです!」
私はそう言って若い女の子たちが大半を占める列の最後尾にそそくさと並び、鞄でよれてしまっていたコートの襟を正した。
──ははは。とジュゼッペはそれを見て笑いながら、ワークブーツの底でコンコンと床を鳴らしながら私の隣に落ち着いた。
私はジュゼッペは笑ったときに目尻に
今日は祝日なのに列に並んでいる女の子たちは制服を着ていてさっきからずっと微笑ましくしている。
学校が休みの日、制服で颯爽と出かけていた随分と昔の私の様だ。
あの頃と同じように私の
ジュゼッペはメニュー表を眺めながら何かを考えている様子で、まるで親にねだるものを迷っている幼子のように見える。もしかしたら他の誰かの事を思い出しているのかもしれない。
そんなことを考えている間に、大層な列の長さにしては随分と早く私たちにオーダーの順番が巡ってきた。
お次の客様どうぞ、とレジの前で店員さんに愛想よく呼ばれたとき、ジュゼッペも眉をひょいとあげて驚きの顔を見せるほどだった。
「私はティーラテににします!あの…えーと、アナタは何にしますか?」
私は店員さんの前でジュゼッペさんと呼ぶのがとても恥ずかしかったので、咄嗟に妙な言い回しになってしまった。
「──くっくっく……、僕はアメリカーノにします」
ジュゼッペは顔を伏せながらそう言って、ポケットから財布を取り出した。
彼の目尻にまた、3本の
「あ、ここは私が奢りますから。これからたくさん運転してもらいますし。先に……お礼です。お気遣いなく!」
私は、彼が財布から取り出したクレジットカードと、財布を抱えていた彼の温かい手をぎゅっと掴んで彼のコートのポケットの方へ押しつけて彼を見た。
ジュゼッペが私よりも先に笑っているのを見てその笑顔を追い越してしまいたいと思った。
ジュゼッペはきょとんとした表情を浮かべた後で、私の瞳を見て、優しく唇を結び直して言った。
「ははは──では、この店で一番大きなサイズのアメリカーノでお願いします。うんとご馳走になります。ありがとうございます」
私は彼のその言葉を聞いて、
──そして
……なぜだろう……とても笑った。
手で口を塞いでみても笑みが溢れてしまって、ついには、きゃっきゃと声に出してその場で笑い出してしまった。
訳を知らず同調して微笑む店員さんに、私は愛想笑いを返して会計を済ませ、レジの前から離れながら声を殺して笑った。
そして、ジュゼッペが目尻に
ここ数日で一番の心地の良い笑い方だった。
いや、もっと久しい感情なのかもしれない。
レジの隣のカウンターでドリンクの出来上がりを待っている私に
「ジュゼッペって、店員さんの前で言えなかったんですよね……?」
と彼がにやけて言った。
「はい……そうです」
と、私は震えながら言った。
そうなのだけど……
きっかけはそうだったのだろうけれど。
こんなにも他愛ない事がなぜ可笑しいのか、
その理由がわからない。
私が笑っている理由は、
店員さんの前でジュゼッペと呼べなかった事だけではないと思っていた。
「随分と大きいな……」
ジュゼッペはカウンターで私の小さなサイズのティーラテと、彼のオーダーしたとても大きなアメリカーノの入ったカップを受け取ると、空中で二つのカップの背比べをしながら私の元へやってきて、申し訳なさそうに言った。
私はそれを見て、また、きゃっきゃと笑った。
彼はきっと、大きなサイズのアメリカーノが欲しかったわけではないのだ。
それがとても嬉しかった。
彼の持っている小さなカップのティーラテはまるで背の低い私のようだった。
「アメリカーノって、イタリア語なんですよ」
店の外へ出て私はジュゼッペに言った。
「へえー、詳しくどんな意味なのですか?」
ジュゼッペは大きなカップいっぱいに入ったコーヒーに、
何度も口元を近づけてはいるけれど熱さを警戒して、なかなかコーヒーにありつけないでいるようだった。
「アメリカ人の、とかアメリカ野郎って意味です!」
「ははは、アメリカ野郎……ですか」
「はい、あのアメリカーノめ、みたいに悪口みたいな使い方もするんです!」
「随分と実用的な使い方ですね……」
ジュゼッペはようやくカップの中のアメリカーノを一つ口に含み言った。
いつのまにか私たちはお互いの顔を見て話すことができるようになっていて、
ジュゼッペの口元が緩んで、
はにかんだ表情を見せるのを時より見つけた。
私たちは、駅の通路の壁に背を預けて二人並び立っていた。
右へ、左へ、目の前を横切ってゆく人たちを見送りながら、私はまだイタリア語の話をしている。
イタリアでコーヒーと言うと俗にエスプレッソのことを意味すること。
そのエスプレッソはイタリア語で《早い》とか《急行》という意味があること。
ジュゼッペはどの話もゆっくりと頷いて聞いていた。
どこにでもあるような祝日の昼下がり。
私はいつのまにか
時間を探すのを忘れてしまっている。
そんなとき、私たちの登ってきたエスカレーターの方向から小さなピアノ旋律が生まれて、
じんわりと構内の騒音に混じりはじめた。
ジュゼッペは音の聴こえてきた方へ振り向いて「えっ‥?」と言った。
私も彼と同じ方へ視線を向ける。
かすかに音の聴こえるその先に、点々と聴衆らしき人が立っている。
小さな音だった旋律は徐々に
季節に焦がれ熟れた果実のように色付いてゆく。
どこかで聴いたことのあるその旋律は
遠い親戚からの便りのように
私とジュゼッペの元へ届き
胸いっぱいの期待で私は満たされてゆく。
「見に行こう!」
私はそう言ってジュゼッペのコートの袖を咄嗟に掴んで、音のする方へ導かれるように彼を連れ出した。旋律が軽やかに流れるのと同じくらいジュゼッペの足取りは軽くて驚く。
松本駅の喧噪の中に一筋流れるピアノの旋律。
迷った挙句に少し勇気を出して
その重い足取りの最初の一歩踏み出しミラノへ向かう私のように
それは、おそるおそる音楽へ姿を変えながら、はじまってゆく。
そういえば──昔、私は
行動や決断が間違っていなければ、
世界のざわめきが突然、
必然さを装った奇跡として
その姿を見せてくれると、確信に近いものを持っていた気がする。
「うわぁ……モリコーネだ……」
と、閃光の中を駆け足で突き抜ける私の隣で、
息を切らしながら満面の笑顔でジュゼッペは言った。
この人に出会うべくして出会ったのだと、
このささやかな偶然に心が躍って早足を進めた。
二人駆け出したその先の
駅の2階の端のストリートピアノで
大学生ぐらいの男の子が儚い音楽を優しい顔で奏でていた。
間違いなかった。
響き渡っていた音楽は私が幾度となく胸を打たれてきた曲だった。
それは20年以上も前の古い映画のテーマ。
──その映画の監督の名前は、
たしか、
ジュゼッペ・トルナトーレ……。
私は、まるで映画を見ているようにじっと、
駅の片隅から溢れ出す音楽に囚われているジュゼッペの横顔を目撃しながら、
もっと、もっと、
君がこれまで密かに織り重ねてきた事を
知りたいと思い、
いつのまにか聴衆が増えていたのにも
なかなか気づかないままで
掴んだ君のコートの袖を、
離すことが出来ないでいた。
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