海がみたい

第13話 海がみたい① ジュゼッペ

僕は松本駅へ辿り着いた。

約束の時間よりも30分早い。

駅のすぐそばのコインパーキングに車を停め、そこから少し歩いた先の駅前の広場でベンチを見つけて腰を下ろした。

綾に到着した事と、今僕のいる場所をマッチングアプリのメッセージで丁寧に伝えて、

僕は約束の時間までここで待つことにした。


居住いずまいのように陣取った、

コンクリートの塊に渡板だけの単純な作りのベンチに座ってふと見上げた空には薄雲うすぐもが幕を引き、

街は太陽をさえぎられて灰色によどんでいる。

目線を少しずつ下げてゆくと駅の構内へ続く昇りエスカレーターに乗った人々がひしめき合いながら吸い込まれてゆくのが見える。

その先の繁華街に面した東側出口は、さぞ賑やかであろうと想像していた。

ところが一方、

僕のいる西口の方はがらんとしていて、

綾とこれから初めて会う僕の緊張を、

意地悪に膨らませようとしているのだと、

幼気いたいけな不安に駆られた。

僕のプリウスが最後の区画を埋めてしまったコインパーキングには続々と車が訪れては、ゲートの側で赤く灯る満車ランプを見つけて悲しく引き返してゆく。

そんな光景を遠目に、

少しだけ切なく感じたり、

駅の出口から出てくる女性の人影に綾の印象を思い出して不意に注意を奪われたりしながら、落ち着かない時間が過ぎてゆく。



「あの…」

と、背中から女性の声が聴こえたのは、約束の時間をスマートフォンで確認したときだった。綾から「到着しました」とメッセージが届いていたのも同時に知った。

風に舞う木の葉の塵と同じ速さで僕は振り返って、紺色の小花柄のワンピースを着た小柄な女性を見つけた。


「あの…ジュゼッペさんですか?」

彼女のゆっくりとした喋り方と声色は、夏の昼下がりにささやく風鈴の音ような落ち着きとはかない明るさあった。

彼女の羽織っているベージュのトレンチコートは彼女の着ているワンピースより少しだけ丈が長い。

思い出したように小柄な綾の、

あのイメージと重なる。


「えーと…はい、そうです…綾さんですか?」

不意打ちに心を揺さぶられ、僕はベンチから無意識に立ち上がって自信のない声で答えた。


「あ…はい、綾です。」

彼女は構えていたスマートフォンを下ろして言った。


「どうもこんにちは。えーと…ジュゼッペ…です」

交互にそっとお辞儀を交わす僕たちのいる場所は、バスのクラクションや車の排気音のとがった騒音に埋もれた街の中で、

そこだけ人心地ひとごこちで切り取られたように思える。

ついに現れた綾は、

つぶらな瞳の中で力強く黒目が湿って艶っぽく光っていて、

目鼻だちがみんな小ぶりで、

一見つんとした顔立ちをしているが、

薄い唇が程よい長さで横一文字に結ばれていて、口角のカーブが緩やかな優しい表情をした人だった。

黒く長く整えられた髪は彼女の着ているワンピースと同じ色のシンプルな髪留めで一本にってあり、

右肩に自然に流れていて、

流行や憧れに流されない持ち合わせたセンスも感じる。

そうやって、

まじまじと彼女のなりを伺う僕の卑しい視線は、彼女のアウトライン全てを追った先で、行き場を失ってしまった。


「すぐにジュゼッペさんだって気づいちゃいました、お写真のイメージ通りですね」

冬の冷えた道のりを歩いてここまできたのだろう、

綾は息が少し上がっていて、

頬を少し赤らめていた。


「ははは…そうですか、もう2年も前の写真なのですが…。綾さんもイメージそのままですよ」

腑抜けた写真に思えていたマッチングアプリのアイコンのことを言っていると思うと、

なんだか僕はくすぐったく感じてしまった。


「そうですか?写真…あっ…ごめんなさい。私もあれ、もう8年も昔の写真なんです」


「へぇ…。そうは見えないですよ、少し驚いています」


「お互い昔の写真でしたね…」

僕たち二人はまだ立ち尽くしたまま、ふっと笑って同時に頷いた。


そう言って綾は、

履いていたドライビングシューズと足首の間にある靴擦れの跡を気にして「痛たた…」と言って、ひょいと片足を上げた。


彼女のゆっくりと動作する仕草や、壮麗そうれいな身なりが相俟あいまって、

まるで、

かの有名な女優ソフィー・マルソーの若い頃のようだと、

僕は古い映画を思い出してしまう。


「イテテ…足が…あの、隣座ってもいいですか?」

綾は眩しくて目が眩んだように片目をつむり、無邪気に笑った。


「ははは‥、大丈夫ですか?」

彼女の無邪気さが移ったように僕も笑みがこぼれた。


「大丈夫です!つい最近長いこと歩いてしまって…ここ真っ赤になってます」

綾は自分のかかとを、「ここ」と指差してもう一度ニコッと笑っている。


「どうぞ、こちらへ座ってください」

と、ベンチに落ちていたの葉を払って僕はそそくさと綾を手招いた。


「ありがと」と言った綾が腰をかがめた時、

今度は綾の肩に下げていた強固そうに見える薄い緑の皮鞄レザーバッグが振り子のように綾の体の傾きの方に揺れて綾は「きゃっ!」と声を上げ、

よろめいた後、

あわてた綾の手の平が、

僕の肩にストンと乗った。


「すみません、私、運動神経が鈍いんです…」


「いえいえ、お気になさらずに」

と僕は言った。


僕の肩に乗ったの綾の冷たい手の平はとても小さかった。

そこに綾の華奢きゃしゃで物足りない体重がもう一度グイと乗って、

「ごめんなさい」と穏やかな小声で言って、

彼女は僕の隣にぺたんと座った。

綾は「よいしょ」と漏らして、

鞄を隣に置いてマイペースに一つ、

無邪気な深呼吸をして、

「あの!今日はありがとうございます!」

と自分の膝を叩いて言った。


「いえとんでもない!僕の方こそなんだかここへ押しかけたみたいで、すみません」

綾の羽織っているコートをこすって流れる風が、

ほんのりと紅茶のような香りと共に

風下の僕へ届く。

その瞬間にずっと見えなかった、

これから過ごす今日一日は、

おそらくとても心地の良いもので、

それを期待と解釈しても良いのかもしれないと思った。


「海…でしたね、今日も見たいですか?」

僕はろくに自己紹介もしないまま綾にぶしつけに聞く。


自分の膝を眺めていた綾は、

はっとしたように僕を見つめた後で、

遠く駅を行き交う人々を眺め直し、

「うん、海。見たい…」

と言った。


「ここからだと…伊豆の方なんてどうですか」

僕は今日までぼんやりと想像していた海を提案した。


「伊豆…うん、うん、行ってみたい、初めてです」

綾は何度も頷きながら、

赤みがかった頬を膨らまして、

あどけない表情を浮かべた。


「では、まず車で新東名を目指します、それで…」と、道順を説明しようとした僕に綾は


「─待って!待って!」

と目隠しの手を差し出した。

綾の右手にはめていた指輪が、

僕の額に一瞬だけ触れて、

その冷たさと金属の質感に驚いた。


「それ以上の行き先は…ね。ジュゼッペさんにお任せします!秘密にしておいて下さい。その方がきっと楽しいから…」

綾はそう言って、

くしゃっと顔を丸めた笑顔を見せながら僕の目をじっと見ている。

僕はおかしくて、

くっくっと笑い、

綾もそれを真似して、

くっくっくっ‥と続いた。


「僕に責任も伴いますが…。名案ですね…よくわかりました、お任せください‥」


「はい!」

綾の大きな返事が返ってきて、

僕の中で行き先がたぶん‥決まった。

行き先は決めなくても良い、

という気もしていた。


伊豆までは、

ゆっくりと休憩をとりながらでも多分4時間ほどの旅。喜んでもらえると良いなと素直思う。

なぜ綾は「海が見たい」のだろう。

今は聞けないでいるけれど、

でも僕は、それをずっと知らなくても良いのかもしれないと思った。

そんな、幻のような人に僕は今日、

出逢ってしまったのだと思う。


二人並んでベンチに座りながら、

綾が松本駅から電車でそう遠くないところに住んでいることや、今僕の住んでいる町の話をした。

お互い住んでいる町の交通事情の不便さや、

町の美味しいレストランの話、

そこまでが今の僕たちに許された話題のボーダーラインに思えて、

お互いそれ以上は踏み込まないような配慮をしているのがわかる。

初めて会った人とは思えない、

どこか懐かしいような、親しみが湧くような、

そんな気がしているのは僕だけなのかもしれない。


「ジュゼッペさん…えーと、ここ!寒い!」

当たり障りのない会話の中で急に綾が言った。


思えば寒空の下もう20分以上この場に居座っていた。僕も同じく体が冷えてゆくのを感じていたところだったが、

それよりも快活になってきた綾の振る舞いが嬉しく、さらに可笑しく感じた。


「ははは、駅で何か温かいものでも買いに行きましょう」


「はい!」


綾はゆっくり立ち上がり、

鞄を肩にかけて今日はまだ雲の中にいるお天道様に向かって伸びをした。

そして、僕たちは人が流れてゆく方へ逆らわずに歩き出す。

並んで歩く綾の頭が僕の肩よりもずいぶんと低いところにあって驚いた。

小柄なのは知っていたのだけれど、あの綾がそばにいると、改めて思った。


人と並んで歩くということをもう随分と忘れてしまっていたように思い、なんとも不思議な気分だった。




































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