第12話 11月23日
11月23日。
私と山本さんは、観光案内所の窮屈なカウンターブースの中で活発に働く暖房に息苦しさを感じながら、昼前のどんよりとした時間に耐えているところだった。
「今週末から、雪が降るかもしれないってね」
山本さんは取引先から納品されたばかりの美術館の優待チケットの束で、顔のあたりを仰いでいる。
「そうみたいですね。最近ほんとに寒くって…食欲も無くなりますよねえ‥」
私は時より襲ってくる睡魔に足首のストレッチで抵抗している。
「あの…それ、理屈がまったくわからないのだけど…」
山本さんは胸元のボタンを外そうとしている。しかしそれが三つ目のボタンだと気が付き首元での
「私のような
誰も得しない話を、よくもまあ自慢のように人に語れるものだと我ながら思う。
「菜月ちゃんの話って、説得力あるけど変よ…」
私の屁理屈に山本さんは半分、呆れているようでもある。
「怠け者の戯言ですね。昨日なんて
それを聞いた山本さんは一瞬、言葉が見つからないようだったが「あなたいくつだっけ?」と、異常な検査結果を見つけた医者のように問診してくる。
「およそ1ヶ月後、ようやく29になりますね…」
私はそれまですっかり忘れていたが、実はそのような厄介な日が刻一刻と迫っていたのだった。いささか感じていた眠気が引いてゆく。
「お酒は相変わらず呑まないわけ?」
「まあ、滅多に呑みませんねえ…」
「休日は出かけたりしてるの?」
「もっぱら、1人で映画館ですね」
「ところであなた…クリスマスのご予定などはありますこと?」
世話焼きの上司がついに
「その日は運転免許の更新にでも渋々行くのでしょうね‥」
私がそう言ったあと、
山本さんの顔に──絶句、の2文字が張り付いているのがわかる。
私はこの手の話には、もうすっかり慣れてしまっている。
「要はストレスをどれだけ無くせるか。それに尽き─」
と、途中まで述べて私は大事な手締めの言葉に詰まってしまった。
いつもと違い平服の装いで、カウンターからすぐ近くのところで旅行案内の冊子を手に取りながら、あの日置さんが立っていた。
会話を寸断した原因が私の目線の先の日置さんにあると気がついた山本さんは、しばしの無言の後、私に目配せをしてにんまりとしている。
同時に私は山本さんの前を横切って日置さんの方へ無意識に歩み出していた。
山本さんのことだ、また目を輝かせているだろう。
背中でそれを感じていた。
──こんにちは
気配に勘付いていない距離で、
「あれ?今日はお仕事ではないんですね…」
もう一度話かけると振り向いた日置さんは驚いた様子でようやく私を認識する。
「今日は用事なんです…先日はどうもありがとうございました。もうずいぶんと前ですが…」
日置さんはハネたくせっ毛を手で撫でながら答えた。
休日の一幕、といった様子でいつもより表情が柔らかい。
──ずいぶんと前、と日置さんは言った。
そういえば、日置さんがここへやってきたのはもう半年も前の事だ。
あの日をそう遠い過去に思っていない私。
父や母からさんざん彼の行いを聞かされていた事が、日置さんとの適正な距離感を狂わせていると感じる。
「そうだと思いました。今日はスーツを着ておられないので。あれからますますコロナのせいで暇になってしまいました。またよかったらお手伝いさせてください」
私はそう言った途端に話す話題がなくなってしまった。
彼にとって私は仕事の中での登場人物でしかない。彼とは仕事の話題でしか会話が続かない事に気がついた。
──「今履いておられる、かの有名なそのブーツ、実は私も同じものを持っていますよ。おっと!こりゃ言葉が滑ってしまいやした、失敬あそばせ‥」なんて突然言えたものではない。
まるでノルマに追われ気が狂った靴屋の店員だ。
しかし、言葉を選びながら悶々としている私に日置さんから意外な質問が返ってきたのは、そんなくだらない想像していたときだった。
「ところで…、もしかしてご実家はお宿か温泉のお仕事をされていますか?」
日置さんは私のネームプレートを見ながら言った。
「ああ、もしかしてこれですか?」
私は驚きながらも平然を装ってそのネームプレートを持ち上げてみせる。
「はい、僕も仕事柄あなたと同じ苗字の方に
たくさんお会いするので、もしかしたらと思って…すみません」
「バレましたか!そうなんです。実家がしがない旅館でしてね…」
まさか私が、日置さんにご
「そうでしたか、変な質問をしてしまってすみません。折を見てまたここへお伺いします。その時は、何卒よろしくお願いします」
そう言って日置さんは深く頭を下げた。
個人情報の保護などという世の習わしを以って、日置さんが私を詮索する事を
そこには「聖なる夜の予定は運転免許更新です」と添えておきたい。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。いってらっしゃいませ」
私がそう言うと日置さんはその場を後にした。
日置さんのワークブーツが床をコツコツと叩く音が、少しずつ時間をかけて遠くなってゆく。
──いってらっしゃい
私は日置さんをどこへ送り出したのだろう。
「あのお、終わりました?」
カウンターから半身を乗り出しはだけた胸元を露わにしながら山本さんがこちらを見ている。
「どうやらそうのようですねえ」
私にもこれができれば、これまた違った人生を歩んでいたのかな…と思う。
「デートにでも行くのかな…」
山本さんは私の言葉にできない不安を先回りして言ってくれる。
「かもしれませんねえ」
私は言った。
「いい男だねえ…」
先輩にとっては惜しげもない台詞だろう。
「まいっちゃいますねえ」
私は言った。
「菜月ちゃんずっと笑っていたよ」
今の山本さんは母のような顔をしている。
「でしょうね…」
でもおかしいな。ずっと背中を向けて今日は顔を隠していたはずなのに。
「やっぱり、あの人と会った後の菜月ちゃん、可愛い顔してると思うよ」
山本さんは言った。
「いつもそれと気づく直前までは居心地が良いんですけどねえ‥」
「はて?」という顔で山本さんが目を丸くしている。
──次会うときは私だけが「おかえりなさい」と伝えられたらいいのに。
不覚にも、
日置さんのことを好きになっている。
知らぬ間に
いつのまにかオーブンの中で膨らんでいた
やきもちの様に、
愛らしく膨らむ過程をいつも見逃してしまうのは
寒い中でキッチンに立つことを嫌う
私のせいなのだ。
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