湯本菜月の場合

第10話「なんすか?」

「この人だ‥」


受け取った名刺を見て私はすぐに気がついた。

そこには、年末実家で父にやたらと聞かされた彼の名前とホテルのロゴが綺麗に印刷されている。

日置 …はじめ、それが彼の名前フルネームだった。

──専務、か…。

それにしてはとても若く見える。

私は仕事中、彼が目の前を通り歩くのを何度か見たことがあった。

心のどこかで、

──彼がそうだったらいいのに…

と、ぼんやり思った事もあったかもしれない。

そしてついに今日、

彼は私の職場である旅行案内所の契約書類に目を通しながら、カウンターを隔て私の目の前で真剣な表情を浮かべていた。


「…なるほど、よくわかりました。本当にありがとうざいます」

彼の所作にはモノクロ映画の中に出てくる英国の伯爵のような余裕があり、噂通りとても礼儀正しい人だった。この町には類を見ない都会的な雰囲気を持つ人だと、シンプルで品の良いスーツの着こなしがそれを感じさせた。日置さんは、申し訳なさそうにして、彼のホテルの案内リーフレットを案内所に設置してもらうには契約が必要だと理解し、立ち去ろうとしている。


「っ‥えーと、あの!もしよかったらそのリーフレット、お預かりします。」

勢いよく弾む、私の心臓の音がわずらわしい中で呼吸を整えながら言った。


「え?よろしいのですか?」

日置さんの表情は緩み、驚きに目を見開いている。


「はい、契約と言ってもここのスペースに印刷物を陳列する為だけの取り決めですし…このリーフレットさえあれば、ご案内できますから…大丈夫です」


「それはとてもありがたいです。皆、きっと喜ぶと思います、恐れ入りますが、それでどうぞお願いします」

もう一度丁寧に頭を下げる日置さん。


私は「いえいえ‥とんでもない」と会釈した。


ホテルのリーフレットの束を置いて、日置さんはこの場を去り、ゆっくり後ろ姿が小さくなってゆく。

──皆、きっと喜ぶ…。

こんな言葉の使い方、優しさに満ちていてずるい人だと思った。




「ふーん…」

日置さんとのやりとりを、私の隣で棒立して見ていたベテラン主任の山本さんがようやく口火を切った。


「なんすか?」

私はそっけなく言った。


「へぇー…」

山本さんはニヤニヤしている。


「タバコ吸いに行きますよ?」

私はむっとした素振りを演じてみせた。


「あはは、それはダメ!ごめん、ごめん」

山本さんは笑い、私の肩をさすった。


「やっぱりあの人、見たことあるなぁ…。よくここ通る人よね…。ホテルの人だったのか。てっきり銀行員とかそんな感じだと思ってたなぁ。それはそうと、菜月なつきちゃん、なんだかとても楽しそうだったね。あなたそんな顔…できるんだねぇー」


40歳半ばで小学生の息子がいる山本さんは、それでいて、妖美さを隠しきれていない人で、どちらかというと派手なイメージを持たれることもある人だが、仕事はとても丁寧で愛想も良く、多少派手なネイルやアクセサリーも仕事には関係ない、と幾分か許容してくれる器量の大きな女性。

そんな大人がまるで高校の先輩のように目を輝かせている。ついさっきの私のうれなど容易に嗅ぎつけられているような気がして、もう、隠せないなと思った。


「私ね…、あの人のこと知ってたんです」

私はなるべく感情が入らないように注意を払って言った。


「あら、そうなの?」

山本さんは少し残念そうな顔をしている。


「はい、私の実家の旅館ご存知ですよね。その近くにあったホテルが倒産して、あの日置さんって人の会社が新しくリニューアルオープンさせたんです。なので噂は予々かねがね父から聞いていたんですよね…『若いやつがヒデちゃんのホテル改装して仕切ってる』って。ヒデちゃんってのは、倒産したホテルの元支配人で、父の古くからの友人で…」


「ふーん…、じゃあ、実家の商売敵じゃない」

山本さんは腕を組んで言った。


「まぁ、そんなトコロっす」

私も腕を組んで言う。


「でもさ、それとコレとは話、別よね!」

再び山本さんの目が輝く。

──本当に高校の先輩か!

私は思わずツッコみたくなる。


「コレ…っすか」

「そうよ!あなた自分がなかなかの美人だってわかってる?そんな可愛い後輩が隣で見たことない表情で男と話してたら、そりゃ、もう一大事よ!」


「じゃあ、乞うご期待ってことで…」

──まぁ、隠す事もあるまい

私は照れも隠さず言った。


「ぎゃー、やっぱり!菜月ちゃんのその顔見るの初めてよ!高身長の美人はハッキリ言うねぇー」

組んでいた腕をほどいて山本さんがはしゃいでいる。


「今日はあっしが休憩、先にもらいやすから!」

そう言って私は颯爽とインフォメーションブースのカウンターを出た。

山本さんはまだニヤついて手をひょこひょこと振っている。私は柄にもなく鼻歌まじりで休憩室に向かった。






「大したもんだよ…」

去年の大晦日、いよいよ今年もあと数時間で終わりを迎えようとしている時刻。

仕事を終えた父が食卓で日本酒をちびちびとやりながら言った。


「何がさ?」

私は顔を赤らめた父を横目に、こたつに潜り込みながら紅白歌合戦をダラダラと拝聴していたところだった。


「ヒデちゃんのところのあの若いの、日置くん。そりゃ、大したもんだよ。」

父はおちょこに注がれた日本酒の水面を眺めながら、まるでこの一年の総括を述べるようにしみじみと言った。


「去年の大晦日は『東京もんにヒデのホテル奪われた!』ってホテル買収に大反対してなかったっけ?」

毎度の事ながら発表会じみた歌合戦に飽きてきたので、ちょうど良い。父の話を年の瀬ぐらいは聞いてやる事にした。


「そうだったか?」

父は笑っている。


「そうでしょ?泣いてたじゃない」

去年の父の無念さを目の当たりにしていた私は本当に少し驚いてしまった。


「まぁ、ヒデちゃんも今年はゆっくりできてるって言うし、いいじゃないか」

父は去年の今生一度の嘆きの事などすっかりと忘れているに違いない。私は呆れた。


「お父さん、日置くんに自分の料理を褒められて、急に態度変えちゃったのよ。でもほんとにいい子よ、あの子。そして俳優さんみたいよねぇー」

母がキッチンで年越しそばを茹でながら、口を挟む。


そして、──それでね‥と母の話は続いた。

よくよく話を聞くとその「日置くん」は去年の夏頃から毎日のように近隣のホテルや旅館に転々と宿泊してはホテル改築の挨拶をして回っていたらしく、私の実家にもその機会がやってきたらしい。とても丁寧な口調と腰の低い装いで挨拶をし「勉強させてください」と言って彼はここへやってきたのだ。


若い頃東京のそれなりのホテルでシェフとして腕を振るっていた父は、母がこれまた東京の旅行代理店で働いていたときに出会い、そのまま婿養子として結婚しこの町にやってきた。


父は気の抜けたところは大いにあるが、旅館の料理長。「日置くん」は、夕食の際に父の作った自慢の信州サーモンのクリームパスタをえらく褒めたのだという。

信州サーモンの独特の淡白さを補うために燻製にして、かつキノコと食感を合わせていることや、地元産のヒラ茸のチョイスやその添え方、懐石料理の中に洋食がある自由さ。

そんな「日置くん」の褒め所が父にとってはこの上なく嬉しいものだったらしく、

仕事が終わると父は風呂上がりの「日置くん」を捕まえて二人で遅くまで厨房で呑んでいたらしい。


それから「日置くん」は度々、彼の仕事の要人をうちの旅館へ連れてきては父の料理で接待してくれるようになった。

悔しいけれど、確かにあのパスタはとても美味しい。


それから母は、「日置くん」が町の人たちから愛されてゆく過程の話に移る。

新しいホテルオープンする際に、近隣のホテルから余剰なスタッフやシフトがもらえないアルバイトの人たちを探して、その雇い主と交渉して、「日置くん」のホテルで雇用したり、

町に一軒しかないコンビニの奥さんがぎっくり腰をやってしまったときなんかは、夜中駆けつけて病院まで運んで付き添ってくれたり。

母が給仕をしていると妊婦のお客さんから「『日置くん』のホテルの予約したのだが、そのホテルまで雪道を歩くのは危険だと気を遣われ、駅から立地の良い私の実家旅館の方を薦めてもらった」と聞いたこともあったらしい。


そんな「日置くん」の良い噂はたちまち町中に広がり新しく改装したホテルの事を悪く言う人は町にいなくなったらしい。「日置くん」のひたむきで実直な働きぶりが伺える。

「ほんと、立派よねぇ」母は言った。


「そうそう菜月、日置くん、独身だって言ってたぞ!」

父の酔いが年越しの波に乗っている。


「それが、何よ?」

私はうんざりして答えた。


「あれは、彼女いないわね…女将おかみの感よ」

母も父の浮かれた波に乗っているようだ。


「あっそ!そりゃあ、めでてえこって」

このまま、親元を離れた1人娘の身の上話に移行してはたまったもんじゃない‥と危険を察した私は外へタバコを吸いにコタツを出ることにした。


「菜月ー。明日の朝の手伝い忘れるなよ!六時な!」

私がそのまま寝室へ戻ると勘違いした父が、食卓から声を上げている。


──年越し蕎麦食べるまではまだ寝ませんけどね。

「へいへい」と父に返事をして外へ出る。



年末のことを思い出しながら、私は休憩室の外でまだ鼻歌混じりで煙を燻らせていた。

さっき初めて言葉を交わした人なのに、

私は日置さんの事を随分と知っている。

もっと言えば、

日置さんの着ていたコートがとある英国のバンドのボーカルが運営しているアパレルブランドのものだった事も抜け目なくチェックしていた。私の目敏めざとい浅ましさが、

──隙ありぃ‥!

と言わんばかりに寒空の下の私の体温を上げてゆく。



休憩室の脇の勝手口から出たところにある

従業員用の喫煙スペース。

そこから一望できる姥捨SAの駐車場。

日置さんが

黒い車にもたれて煙草を吸っているのが

遠く先の方で見える。


私は日置さんを見ながらこの遠い距離をうれいている。

私の鼻歌が、

彼の着ているコートにゆかりのある英国バンドの歌に変わってゆく。


私の大好きな歌だ。























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