第9話 指輪とパンケーキ

水道水で沸かしたお湯で乱暴に淹れたフルーツティーは鉄の味がした。ネットでお気に入りの風味の紅茶をわざわざ取り寄せて「届くのが楽しみだね」なんて、渡くんとこの部屋で肩を並べて話していた少し前ことを、まるで遠い昔の日のことのように思い出す。


二人でガレリアで会って話をした次の日、

渡くんは展示会の仕事で東京へ向かい、

週末まではきっといつもの代々木のホテルに泊まっている。

出張の夜は決まっておのずと片割れが電話するという私たちの暗黙のルールがこんな風に簡単に途切れるなんて思わなかった。壁にかかったアナログ時計の針は22時を指し、長針はその先をせっかちに回り続けている。

いつもなら彼とダラダラと通話していた時間。

あのガレリアの日から3日が過ぎていて、

今日私は渡くんのアパートに一人でいる。




東京で渡くんは九州の代理店への案内資料を急遽準備しなければならないことになり、渡くんのアパートに置いてあるパソコンの中にある写真のデータを全て送ってほしいと、夕方ラインでメッセージがあった。

どうやら手元にあるデータでは足りないらしく困っている様子で

──ごめん、頼める人が…他に思いつかなくて…。

文末に申し訳なさそうにそう書いてある。

私も「気にしないで、大丈夫!」と返信して、

帰宅途中の道を引き返して渡くんのアパートに向かった。

渡くんの態度は変わりはないように見えて、

「お礼に東京駅でメープルマニアのクッキーを買って帰るね」と、ついさっき受信したラインにも、変わらず穏やかな顔と、キノコ頭が浮かぶ。むしろ、いつもより優しくなったような気さえした。


合鍵を使って彼の部屋に入ったとき、ルームウェアや、歯ブラシや、私の下着、洋服や、化粧品。彼の飲まないコーヒーとかサプリメントが、つい先日から居場所を失い、今も尚、悲しくこの部屋に居座いすわることを強いられているように思えて、そんな彼ら、彼女らに申し訳ない、と目を伏せた。

私の出入りしている痕迹こんせきが残ったままの渡くんの部屋。

馴染みのある部屋なのに、すぐ隣の寝室の扉の先が遠く感じる。

ベッドの上で冷たくしおれたシーツが沈黙に影を落としているに違いない。頼まれごとを早く終わらせてすぐに帰ろうと思った。


パソコンに光が灯る。

画面に眩しく映る美しいバイオリンの写真。

それらが記号のようなファイル名でフォルダに無造作に収められた様子を見て、

このままぶしつけに転送されては渡くんも不便ふびんだと思い、後々作業が円滑に行えるよう、写真のファイル名をひとつひとつをバイオリンの商標に書き換えて送ってあげることにした。


この三日間、私は無駄むだに笑い捨てるようになった。朝テレビで流れていた階段を踏み外すドジな柴犬の映像を見て笑った。仕事中、常連のお客さんが財布を忘れてきたことに笑った。夕食の時、父がうっかりビールをこぼした時にも笑い、靴下のチョイスを間違えて左右の色がうっすらと違うまま、間抜けに1日を終えたことに気がついて、玄関先で一人で笑った。「何かいいことでもあったの?」と母はクスクスと笑っている私に気づき、寄ってきて首を傾げた。

「見てよ!コレ…」と、色違いの指先をウインクさせて、次は母と一緒に笑った。

見当違いの母の台詞にもあなどれないものがある。生活を共にしていると私の些細な変化にも気づいてしまう何か画期的な理由があるのだろう。


肝心なことはいつも言葉にしないでお互い乏しい想像力で埋めて、すれ違いや勘違いの絡まった糸を解く為には、きっかけが生まれるまで時に身を任せるしかない。共に歳を重ねてゆくと、自然とそうなってしまうものだ。私がいつもより無駄に笑っている本当の理由を、母はいつ知るのだろう。


──そんなふうに渡くんとも6年間、時間を積み重ねてしまったな。

と、苦い感情が胸に刺さる。

私はパソコンの前でぎこちなく顔の筋肉を緩め唇を尖らせて笑って見せようとした。


──この部屋、居心地がいいんだよ。

と誰かに強がってみせるように。

恋人の部屋に一人いることがよくある日常に見えるように。


しかし、今度はうまく笑えなかったようだ。

無音の空間にカタカタとタイピングの音だけが飛び散って消えてゆく。

外では秋風が轟々と唸っている。

暖房の効きもいつもより貧弱に感じる。


100枚近くあった写真の整理も終わりが見えてきて、他に取りこぼした写真がないかと別のフォルダを眺めていたとき、あぶくのように湧き出した私の記憶に手が止まった。

夕暮れの諏訪湖すわこのオレンジ、上高地かみこうちの朝焼け、厳島神社の神秘的な海、しまなみ海道の突き抜けた青空や川口湖の紅葉のトンネル、御殿場のアウトレットモールを見下ろした夜景…。まるで映画の象徴的な場面のような写真が数えきれないほど、そこには収められていた。その全てに渡くんと私が二人並んで写っている。


一枚ずつ写真をめくるたびに、

彼と過ごした記憶の断片が次々と網膜もうまくをすり抜けて、

私の記憶の奥底、深く潜った先にある扉の前で、はじけて消えていく。

着地せず空中を彷徨さまよっている二人の未来に鞭を打つように、溢れ出した記憶が凶器となって私を責め立てる。

思い出に浸っている場合ではない事に気づいていながらも、そこに留まったままの2人の笑顔から目を離すことができずに次々と写真をめくる。このまま昔のことを思い出し続けて、もう一度渡くんに甘えることができれば

これからもずっと隣にいることができるかもしれないと思った。


「ワタシガ、シャシン、トリマス?」

あの時は外国人の品の良さそうなお婆さんが私たちが自撮りに四苦八苦する姿を見つけ親切にしてくれた。

私たちが初めて一緒に出掛けた日の諏訪湖サービスエリアのできごと。

山梨県にある大きなお菓子の工場に見学行った帰りで、夏の終わりの夕暮れが溶けて流れてオレンジ色に諏訪湖を染めていた。照れ臭そうに「お願いします」と渡くんが言って何枚かお婆さんに写真を撮ってもらった後で、私が「サンキュー」と手を振った。

あの頃はまだお互いに気恥ずかしいところがあって30センチぐらい2人の肩と肩が離れている。

自撮りが上手くいかなかったのもその距離が原因だったな。

そんな諏訪湖を見ているなんだかむず痒い二人の後ろ姿の写真。

──私って、本当に身長が低いな…

少し笑った。


写真をめくっていくうちに思い出される記憶がしだいに新しい鮮度を帯びてゆく。写真が少しずつ今の二人に似てくる。


そうやって無意識にまた次のフォルダを開いた時だった。

それまで浮かんでいた淡い記憶がブラックアウトして、私はすっかり冷めてしまったフルーツティーを熱くもないはずなのにゆっくりと口に含んで、その鉄の味を舌で転がしながらなかなか飲み込めなくなった。

フォルダの中には、去年のクリスマスの演奏会の写真と、煌びやかな指輪の写真があった。ガラスのショーケースの上で何種類もの指輪が見本市のように並べられている。そしてその写真の群れの間に挟まれるように私の記憶に無いパンケーキや焼き菓子の写真が混じりだした。渡くんの行動を追うように、指輪の写真、スイーツの写真、が交互に並んで、渡くんの一日が四コマ漫画のように露呈してゆく。それがここ最近まで何話も、つまり数日続いているようだった。写真のファイル名が日付になっていたので疑いの余地もなく思える。


私の知らない渡くんがいた。

私の居ないところで撮られた指輪とパンケーキの写真。その事実だけが傲慢な私の味覚を奪ってゆく。渡くんは甘いものが苦手だった。

私たちはとっくの昔に終わっていたのかもしれない。


私はそれ以上パソコンの中を覗き見ることはやめにした。頼まれていた写真が無事送信されたことを確認し、借りたティーカップを丁寧に洗い、家に帰る身支度をした。気がつくと時計の針は午前0時を回っていて今日もまたタクシーを拾うことになりそうだと思った。


帰り際、私はジュゼッペにメッセージを送った。

「私、身長が150cm!低いんです^ ^」

文字は笑っているけれど、

私はずっと泣いていた。















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