第8話 「楽しみ」
「ごめんね、お待たせ」
そう言って、残業を終えた渡くんが事務所から出てきた。
まだ着替えも出来ずに店の隅で固まっていた私は、
それから帰宅準備をはじめ、渡くんを少し待たせてしまった。
店のシャッターを渡くんが降ろして
手をパンパンと鳴らして、白い息を吐く。
「タクシー呼ぶ?」
渡くんはコートの襟を正しながら言った。
「いいよ、今日は歩こう」
今は歩きたい気分だった。
ガレリアが混んでいれば良いのに…と思った。
閉店した店のシャッターに囲まれた日曜日の69商店街。ここ10年ぐらいの間に激増した外国人の観光客へ向けた看板は流行りの疫病にその役割を奪われて今は街の単なる不気味なオブジェと化していて、かつての華やかさは失ってしまってはいるけれど、今日は多くの人で賑わっている。
二人でガレリアに向かって歩くのは久しぶり。
渡くんの斜め半分前を先に歩く癖は全然治らない。付き合いたての頃、会社の人に見つからないように2人でコソコソと隠れるようにこの商店街を歩いていた事を思い出す。
入社して一年目、
「君たちで子供向けのレッスンやってみなよ」と、社長、兼職人の宇津木さんの鶴のひと声で
はじまった夏休みのバイオリン教室の企画。
当時新人だった私と渡くんは意気込んで引き受けた。二人とも穏やかな社風に心地よさを感じ始めていた頃だったと思う。
工房は販売店としての役割も兼ねていて、
私は昼、店頭に立ち案内をする仕事で忙しくしていたので、渡くんと引き受けた企画の話ができるのは店の営業を終えた後だった。
企画の実施が迫るにつれて二人で共同作業する事が増えてゆき、お互いの家で準備を進めた方が効率が良くなっていった。
打ち合わせの
生まれつきの直毛でマッシュボブしか自分に似合う髪型が思いつかないこと。
高校生の頃、付き合っていた彼女にチャールズ・ミンガスのCDをプレゼントして大失敗したこと。
私の知らない渡くんをたくさん聞いた。
そうやって夏休みが終わる頃には、私は渡くんの住むアパートに入り浸るようになっていた。
私の家は実家だったから自然とそうなった。
店に着くとガレリアは予想以上に混んでいた。
表の看板を見ると、どうやら今日は、ボジョレー・ヌーボーの解禁日らしくそれも影響しているらしい。
普段はカジュアルなお店なのに今日は
二人でメニューを眺めながら、
季節野菜のサラダ、焼きなすとしらすのマリネ、
燻製の盛り合わせはイカとサーモンと鯖を選んだ。
渡くんはメインを予定通り季節の限定の牡蠣とブロッコリーのアーリ・オーリョのパスタにして、私はお気に入りのブッラータ・マルゲリータのピザを頼んだ。
ワインはお店に任せておすすめの白ワイン。
渡くんが私好みに合わせて、すっきりとした甘口とオーダーしてくれた。
こうしてグラスを合わせるのも久しぶりだった。渡くんは今ではすっかり営業部長として会社に腰を据ている。職人さんを除いたら会社の3番目に偉い人になっていて、
会社に残って一人で仕事をしたり、
出張して街から出る日も増えていた。
それでも変わらず会社近くのあのアパートに住んでいて、私がそこへ行くのは週に一度くらい。
「東京の展示会、うまくいきそう?」
パスタを器用に巻いて食べる渡くんを見ながら私は聞いた。
「うん、工房が頑張ってくれているし、
納品も間に合いそうだよ…」
渡くんはフォークを置いて、でも─と続けた。
「コロナでスプルースとか、貴重な木材がなかなか手に入らなくなって、宇津木さん達、工房チームも大変みたい・・・でも趣味を大事にする人が増えていて楽器は売れている。それが救いだよね」
そう言って、二杯目をグラスに注ごうとしてワインボトルを手に取った。
「そっか…うまくいきそうなら良かった」
と私は言って、渡くんからボトルを横取りして彼のグラスに注いだ。
私はもう3杯目を飲み終えようとしているので自分のグラスに注ぐのはやめにした。
その後も久しぶりのガレリアで
私たちはゆっくりと仕事の話やたわいもない話をしながら過ごした。
そしてテーブルがパンとスープだけになって寂しくなった頃、「あのさ…」と、渡くんが私の顔を見て言った。
「あ、大事な話…?」
私は手を膝に置いた。
「うん…」
と渡くんは深呼吸して続けた。
私もゆっくりと唾を飲んだ。
「僕たちってさ、もう長いからさ
その…つまり少しだけ時間が欲しいんだ」
渡くんはまっすぐ私を見て言った。
「時間…」
私は気が抜けていく風船のような声を出してしまった。
「うん…、きっとそれが一番いいような気がして…このままでいるの良くない気がする。お互いに…うまくいっていない気がする」
渡くんは言った。
「…うん」
「そっか…、そうだね。」
私は笑って答えた。
「ごめん…、うまく話せなくて」
渡くんは私から目を伏せて言った。
「いいの、私も渡くんの言ってることたぶん、
わかってるから…」
私は渡くんの
お互いそれ以上踏み込んだ話はできないまま、
ラストオーダーの時間になってしまい、「出ようか…」と私がいい出すまで無言が続いた。
「じゃあまた…明日」渡くんはタクシー乗り場でそう言って、私が出発するのを見送ってくれた。
私一人を乗せたタクシーが1度目の信号に捕まったとき、「いやー。今日はまた一段と寒いですねえ」と運転手さんが大きな声で話しかけてくる。
─はい。と声を絞るように出したところで、窮屈な頭の中を運転手さんの声にえぐられたような気がして「ここで大丈夫です…」と、タクシーを無理やり降りた。
郊外に飛び出した私はひとり、家に向かって歩く。頭の中はあれからずっと真っ白になっている。もしかしたら…と、不安に思っていた事と真逆のことが起きた。渡くんがずっと感じていた私の不安、心配になった彼は、
私をグイと渡くんの未来の方へ引っ張ってくれるものだと勝手に想像していた。
てっきり、彼がプロポーズしてくるものだと
私はずるい。
時間が欲しい─と言った渡くんに
「そうだね」と、
笑って返すことしかできなかった。
─そんなのいやだ、とか
─さよなら、も、
何も言わずに、こっそり楽になっている。
私は渡くんのまっすぐなところは今でもとても好きだけど、そんな渡くんの側に憑依しているように覗く私自身の事がすごく嫌いだ。
考えても、考えても、
渡くんとこれからどうすればいいのか
わからなくなる。
午前0時。
1時間も私は歩いていた。
幼い頃から何度も歩いている家の近所の川べりの途中、家までもう少しの場所をまだふらふらと歩いている。
暗がりでスマートフォンが瞬いて足を止めた。
渡くんからのラインだった。
──今日はありがとう。嫌いになったわけじゃないって事だけ言っておきたくて、おやすみなさい。夜遅くにごめん!
うん。またゆっくり話さないとね!
こちらこそ今日はありがとう。
おやすみなさい──
私はそれ以上なにも言えない。
嫌いになったわけではない。
私も同じ事をずっと考えていた。
週に一度の渡君の体温を
図々しくちゃんと覚えている。
でも時が経つにつれて、
今の私があの頃ミラノにいた私からどんどん遠くへかけ離れて行ってしまうを無視できないのだ。音や、季節や、街の温度。コーヒーの味や、バイオリンの弦を支える指先の痛み。そして、たまに欲しくなる人肌の温かさ。それらが星空のように広がって私の中に一枚ずつ絵を作ってゆく。そんな毎日があのミラノの生活にはあって、それが一生をかけて増えてゆくものだと思っていた。渡くんと過ごす時間にそれが無いのがずっと辛かった。
不安が膨んでゆくのを止めることができないまま、居心地の良い渡くんの側に6年以上も居続けてしまった。
─行かないで!と、あの頃の私の背を追いかけてどこかへ逃げ出したくなる日は、
決まって、バイオリンを弾いている時。
私の好きだった音はもうずいぶんと前から、どこか遠くへ行ってしまった。
そんなときマッチングアプリを始めた。
渡くんから離れる選択が何かのきっかけになるかもしれないと思った。
名前も「あ」一文字にするぐらい不真面目な気持ちで登録しようと思ったけれど、変換候補に出てきた「綾」にした。
後から調べてみると、「綾」には複雑な模様という意味もあって、今の私にちょうど良い名だと思った。
──ミラノにいた頃の自由な私にもう一度会いたい。この後に及んでまた思ってる。
「23日かな!祝日だけど」
私は道端に座り込み、
ジュゼッペにそう返信した。
その瞬間、
泥のついたミュールを励ますように
スマートフォンのライトが優しくそこへ瞬く。
「じゃあ、23日でお願いします。
車出しましょうか?楽しみです!」
──嗚呼、君の返信はいつも早いね…。
──お願いします(^ ^)松本駅でいいですか?
──お昼12時でどうですか??
──では、よろしくお願いします^ - ^
川の流れのように、君との交信は線を外れない。今すぐにどこかへ行ってしまいたい私は
君に救われているようだった。
1週間後、
私をジュゼッペが迎えにくる約束。
こんな私を海に連れて行くことを
「楽しみ」なんて言ってる人がいる。
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