綾の場合

第7話 「いつ行ける?」

ひどく懐かしい曲が流れている。


優しい男の人の

ささやくような歌声と美しいメロディーが

君の車の中に溢れて、

私はそれに溺れるようにして目が覚めた。

ミラノにいた頃、

ジャズバンドの仲間に教えてもらって

何度もバーで演奏した曲。

「アルフィー」

久しぶりに聴いた。

こんな風に出会えるなんて。


ベッドの上で「綺麗」と言って、

長いあいだ私の尖った指先を見つめていた

あのときの君と、

私は今、同じ気持ちだろうか…。

車の外で海を見ている君は

何度も何度も大きくタバコの煙を吐き出して遊んでいるように見えて、

やっぱり、少し可愛い人だと思った。

明け方の海の小さな光の群れは、

まるで蛍みたいだ。

君のタバコの火はそれとよく似ていて

私は見惚みとれてしまっている。


今駆け出して君に抱きついたらどんな顔するだろう?

なんだか唇が緩んでしまう。

君を驚かせないように、

外へ出るときはゆっくりドアを開けよう…。


「起こしちゃったね」と君が言ったので、

言葉が見つからなくて、グーのポーズで答えた。


それから、

2人並んで海を見ていた。

夜道を運転する君の話を聞きながら

うっかり寝てしまって

どれぐらい時間が経ったのかも、

ここがどこなのか見当もつかないけれど、

あの頃、見た地中海に少し似ている。


まっすぐに伸びた水平線は、

口を閉じたように静かで

私は海にじっと見つめられているような気がした。





小さい頃からミラノが恋しかった。

憧れていたジュゼッペ・ヴェルディ音楽院のある街。

その街の一員になることだけは、

どうしても諦めきれなかった私は音大を卒業して

親の猛烈な反対を押し切ってイタリアに移住した。

そのために必要なお金は、

在学中にバイオリンの講師と水商売のアルバイトをふたつ掛け持ちして何とか工面して、

就職先は渡航の前にネットで見つけた

アパレルブランドの運営するカフェ。

ミラノの中心にあるガレリアのアーケードの中にあるお店で、

とんでもない値のついたコーヒーを

運ぶ仕事だった。


ミラノで過ごした毎日は輝いていた。

ピザは日本より安いのに、

美術館の入場料は驚くほど高い。

ヘンテコな物価に最初は驚いたけれど、

しだいにそれが常識だとイタリア風に吹かれた。

ミラノの中心から少し離れた

ミッサーリア通り沿いのシェアハウスを借りて、

そこからお気に入りのトラットリアを探しに行くのが休日の楽しみだった。

暮らしに慣れてくると

シェアハウスの近くのジャズバーで週末に演奏もさせてもらえることになった。

そこで貰うチップは日本のアルバイトより稼げたこともある。

この町では音楽はとても価値があることなのだと知って、嬉しかった。


しかし夢のような生活は長くは続かなかった。

仕事の契約が2年更新となっていることを後から知った。

日本でエージェントから受けた説明では、

日本人を含めたアジア人の観光客を相手にすることも多いので

カフェの仕事は、英語と日本語で事足りると聞かされていたのに、

実際の業務の全てにイタリア語の読み書きが必要で、憧れとは裏腹にイタリア語はなかなか上達しなかった私は、社内で評価を下げ契約を更新してもらうことができなかった。後から、身長が低い事が原因だったと噂も聞こえてきたが、その真意はわからない。

同じブランドのカフェを銀座で運営している日本の会社に

鞘替えの道筋を作ってもらったけれど、急な展開に気持ちが追い付かずそのまま退社した。


それから松本の実家へ半ば強制送還されて

絶望していた私は

偶然、近所にあるバイオリン工房の営業の求人を知った。

ちょうど親に心配をかけまいと

本気で思い始めていた矢先だったので

ダメ元で応募したところ、

ミラノにいた事を驚くほどに評価してもらい

今の会社に運良く拾ってもらうことができた。

勤めてもう7年にもなる。

私がプロの奏者になるのを諦めてから過ごした月日と同じだった。


「今晩、大事な話があるんだけど」


閉店後、店の販売フロアで年末の展示会のパンフレットを眺めていると

わたる君が隣で神妙な顔をして言った。


「うん、大丈夫だよ、ガレリアでいい?」


私は渡くんの少し緊張した様子をかわすようにして答えた。

彼と付き合って6年と少し経っていた。

同期入社の渡くんは私がイタリアにいた時間だけ歳が離れていて、

つまり2つ歳下だった。


「うん、ガレリア行こう。牡蠣とブロッコリーのアーリ・オーリョ気になってるんだ」

渡くんはそう言って「少し仕事が残っているから、20時に」と、事務所のデスクに戻った。


私は予感していたその日が

ついに来てしまうかもしれない、と思った。

この7年間ずっと私の側にいたのは渡くんだった。

渡くんは私の顔が季節のように移り変わる様子をこれまで見てきたはずだ。


渡くんがここ数ヶ月、たまに平日に有給をとって

どこかへ出かけているのも知っていた。

浮気など決してするような人ではないし、

実は、私が寝ている時、

正しくは目を瞑っている時に

隣で私の指輪をゴソゴソと漁りながら

採寸しているのを見てしまったこともある。

ど、が3つ付くぐらい真面目で、いつも店長に「しなくていいんだよ」

と言われているネクタイを毎日柄を変えて締めてくるような人だ。


私はついにその日が来てしまうかもしれない、と再び思った。

ここ数年の私の心の変化を彼が見落とすはずがない。

まっすぐな人の目は私の不安など簡単に捉えてしまうだろう。

──もしそうだとしたら、今日私は何と答えたらいい?

まっすぐな彼の目が、今も昔もこんなにも好きなのに…。


販売フロアのレジに隠れるようにして

無意識にスマートフォンを取り出した。

私はマッチングアプリの中の人たちを次々に

スワイプして叩き切った。

──何をしてるんだろ。一体。

虚しくなった時、

「ジュゼッペ」という人に目がとまる。

痩せ型で、色白で、登山など絶対にしそうにない人が、

やれやれといった感じで山頂から見える朝日に煙草を掲げて背を向けている写真。

顔は見えないけれど

私の憧れていたジュゼッペ・ヴェルディと同じ名前。


何かにすがるように「いいね!」を押した。

マッチングが成立した。

途端に現れた花が開くアニメーションは、

私への皮肉だと思った。

私は「海が見たい」とメッセージを送る。


すぐに彼から返事が来る。

「いつ行ける?」


私は動けなくなった。

私が見たいのは地中海のあの海の事。

──連れて行ってくれるのかな。

これから渡くんと行く、ガレリアみたいに

名前だけ同じとか、そんな偽物ではなくて、

私のバイオリンが毎日聞こえてきた、

あの地中海のこと。

──今すぐに連れて行ってほしい

と思った。






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