第5話 「行ってらっしゃい」
昨晩、午前0時のいつもの時間、
「それでは明日、楽しみにしています」と綾からメッセージが届いた。
一世一代の商談に
「海が見たい」と漠然に綾は言った。
写真とはまるで別人が現れる可能性もある。
まだまだ不確定なことの多すぎるぼんやりとした約束。
冷静に考えれば容易に想像のできる不安が、
いつも直前になって露呈するこの状況は
仕事で下手を打つ理由と同じだ。
そして迎えた約束の11月23日。
僕は松本駅へ向かっていた。
考えても始まらない。
約束とはそういうものだと言い聞かせている。
車が
午前10時頃だった。
車のドアを開けると冷気が一気に流れ込み北アルプスの陽気さとは裏腹にどんよりと漂う
月に何度も西へ、東へと目まぐるしく出張する傍で、行きも帰りも立ち寄るこの場所は、
緊張と安心の交差点のような場所。
観光案内のインフォメーションで宿泊施設の情報をチェックする癖がもうすっかり板についている。
「あれ今日はお仕事ではないんですね…」
パンフレットを物色している僕にインフォメーションブースから女の人の声が聞こえた。
以前、一度だけ僕の担当するホテルの案内を置かせてもらう交渉をした事があった若い女の人だった。記憶に重なるように大きな輪のイヤリングが今日も印象的で、以前と同じように髪を後ろで結っている。
「今日は用事なんです…先日はどうもありがとうございました。もう随分と前ですが…」
まさか僕の事を覚えているなんて思いもしなかったので驚いた。
「そうだと思いました。今日はスーツを着ておられないので。あれからますますコロナのせいで暇になってしまいました。またよかったらお手伝いさせてください」
派手なイヤリングと少しダークな色味のリップからは想像できないしっかりとした人だ。
──そういえば以前も同じ事を考えてたな
と思い出す。
──
彼女の苗字が名札で分かった。
「世の中はコロナで大変な時期ですね。ホテルもなんとか皆、頑張っています・・・。また案内をここへ置いていただけると大変助かります。
ところで…、もしかしてご実家はお宿か温泉のお仕事をされていますか?」
彼女の胸の名札を見つめながら僕は言った。
「ああ、もしかしてこれですか?」
彼女は名札をクイっと正して答えた。
「はい、僕も仕事柄あなたと同じ苗字の方に
たくさんお会いするので、もしかしたらと思って…、すみません」
「バレましたか!そうなんです。実家がしがない旅館でしてね・・・」
湯本さんは、突然の僕の質問にも澱みの無い笑顔で応えた。茶目っ気の混じった江戸っ子口調で答えた彼女は旅館の女将のようだ。
いや、いつか本当にそうなるかもしれないとも
思った。
「そうでしたか、変な質問をしてしまってすみません。折を見てまたここへお伺いします。その時は、何卒よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。
行ってらっしゃいませ」
彼女はブースからわざわざ出てきて頭を下げた。一瞬のぞいた旅館の娘からすっかり仕事の顔に戻っていた。僕も会釈して建物を後にした。その後もなんだか彼女の視線を背中に感じている様な気がして売店へ行くのはやめた。
※
外の自販機で売店で買いそびれたお茶を買った。スーツを着ていない今日の姥捨SA。
あと1時間もしないうちに僕は松本駅に辿り着くだろう。
──夜はもっと冷えるそうだよ
と、通り過ぎる観光客が
話をしていたのが耳に入る。
これから綾に会いに行く僕に、
「いってらっしゃい」
と言った湯本さんの声がズキっと響いた。
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