1話 速水千奔と鷲野翔華
その日、
前日の夜に行ったバイトで、同僚のミスをカバーなどして、終えるのにかなり長引いたことが理由にある。
簡素な食事を摂り、登校の準備をして家を出ると、いつもの徒歩のルートでは遅刻するか否かギリギリの時間だった。
本日は始業式。夏休み明けから遅刻するのでは幸先が悪い。
仕方なく、千奔はいつもとは違う、高校への近道を使うことにした。
彼の通う旭山高校への徒歩ルートは、少しアップダウンのある坂道になっていて、普通の生徒は坂を登りつつ、下りつつ、はたまた回り道をして向かうのだが、実は脇道に入り、学校の裏にある山を突っ切っていくルートが存在する。
しかし、正規のルートよりも遥かに傾斜のある険しい道になっている事と、とある大きな障害のせいで、使っている者はほぼいない。
そんな険しい道であるのに、千奔は息を切らす事なく、スタスタと競歩が如く歩いていった。山道の中腹まで歩いた時だった。
キョロキョロと辺りを見回し、携帯とにらめっこしている女子がいる。旭山高校の制服を着ている事から、千奔と同じく登校中という事が分かる。
そして千奔を見つけて、あっ! と何か安堵したような笑顔を見せたが,当の本人の千奔は、特に女の子を注視するでも無く、さっさと通り過ぎようとする。
「あ、あの!」
女子が千奔に話しかける。が、千奔は無視してさっさと歩いて行ってしまう。
しかし、女子は切羽詰まっている事もあり、追っかけて彼の肩を二度叩いた。
「あのぉ!」
叩かれた千奔は女子の方へ振り向き、先程まで眠そうにしていた目を大きく見開いた。
「しょ……」
「しょ……?」
女子が小首を傾げて聞き返すと、千奔はパチクリと瞬きをした後、ふーっと入った力を抜くように息を吐いた。
「すみません。ちょっと……知り合いに似ててびっくりして」
千奔が伝えると、女子は怪訝そうな顔に変わっていく。
「え……な、ナンパ?」
「いや、声かけたのそっちなんですけど」
冷静なツッコミが繰り出されて、女子は口をぽかんと開けた。
「あ、そっか。じゃなくて! ねぇ、旭山高校の人ですか? 道、こっちで合ってる?」
「合ってるけど……、この道使うの初めて?」
千奔が尋ねると、女子はアハハと誤魔化したような笑いを浮かべる。
「この道どころか、学校行くの初めてなんだよね。あたし転校生だから」
「……道理でね」
「へ? 何が? って、あっ、ちょっと待ってよ!」
千奔の一人悟ったような様子を気にする女子。だが、本人は気にせず歩き始めながら答える。
「学校で見ない顔だと思ったからさ。知らないわけだなって」
「ふぅん」
深く掘り下げないで欲しいという千奔の気持ちを何となく感じ取ったらしい。
粗のありそうな彼の発言の揚げ足を取ることはなく、女子は何も言わずに千奔について行く。
しばらく歩くと、このルートを使う者がほとんどいない理由が明らかになった。
「えー何ここ。めっちゃ川じゃん!」
二人の眼前に広がるのは向こう岸まで5mはありそうな渓流。しかも若干流れが早く、底の石もかなりぼやけて見える。
「いやめっちゃ川って」
女子から顔を逸らし、軽く吹き出した千奔。若干バカにした風にも捉えられるが、女子は先ほどからとても無愛想だった彼が笑った事に少し安堵し、無意識に口角が上がっていた。
だが、反応が無いことで千奔の視線がこちらに向いて、慌てて言葉を返す。
「で、でさ。ここどうやって通るの? 底浅いようにも見えないし」
「普通に通ったらローファーと靴下はお亡くなりだね。はい、カバン貸して」
「あ、新手のひったくり?」
「そんなわけ無いだろ。っていうか遅刻するぞ」
「ん、んー」
鞄を渋々千奔に渡す女子。渡された千奔は右肩に背負うと、ボソっと愚痴る。
「おもっ……始業式なのに」
「女子は色々大変なの!」
「そう、それは大変だね」
興味無さそうに言いながら向こう岸を見つつ、屈伸をする千奔を見て、女子は一抹の不安が胸をよぎる。
「ま、まさか」
「よっ! っと」
軽く助走をつけて、千奔は思いっきり跳び上がり、走り幅跳びの要領で綺麗に着地した。
「ふぅ、よしっ、じゃあ靴と靴下脱いで、渡って来なよ。尖った石とかあるかもしれないからゆっくり……えっ」
言葉を失う千奔。何故なら対岸の彼女は先ほどの千奔のように屈伸と伸脚をしている。
「いや、女子には無理だって!」
珍しく慌てて身振りで制止する千奔だが、女子は覚悟を決めた顔でニヤッと笑った。
「着地頼むね!」
「聞いてねぇ」
「よっ!」
「……マジか」
彼が驚いたのは彼女が聞く耳持たないからでは無かった。
エアウォーク。トップクラスのバスケット選手や、それこそ跳躍後の走り幅跳びの選手が魅せる、空を歩き、滞空時間を延ばしたのではないかとさえ思わせる妙技。
その女子は軽々とそれを披露して、呆気に取られていた千奔の下に舞い降りた。
「がっ!」
「ぎゃっ!」
受け止めるというより、勢い的には最早突進だったが、何とか二人とも濡れずに向こう岸までたどり着いたのである。
「はー! 面白かった。よしっ、じゃ行こ!」
「…………」
今受けた痛みよりも驚きが勝り、目を見開いたままの千奔。尻餅をついたまま立ち上がらない彼を見て、首を傾げる女子。
「どしたの? 行かないの? あ、ごめん、どっか痛い? 怪我した?」
「いや、凄いなって」
「あー、ジャンプ? あたしバスケやってたから多分イケると思ったんだよね。てゆうか君の方が……あ、そういや名前聞いてなかったね。教えてよ」
尋ねられて、少し間を置いて答えた千奔。
「……俺は速水千奔」
だがそんな含みもつゆ知らず、女子は尻餅をついた千奔に屈託の無い笑顔を見せ手を伸ばす。
「あたし
「しょ……いや、はやはやって……」
何故か彼女の名前と、初めて付けられたあだ名に戸惑いつつも、彼女の手を握り返す千奔。
久しく同級生と関わってこなかった彼にとって、久しく彼女に笑いかける事の無かった彼にとって、それは何処か温かくて、尊いもののように感じたのであった。
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