形に触れる_4
「全然来ない」
此処へ来てどれくらい経つのだろう。何故か部屋に時計がない所為で正確な時間はわからないが、外の明るさからしてそろそろ昼の鐘が鳴るのではないだろうか。菓子のお蔭でまだ空腹は覚えていないが、これほど待たされるのは想定外である。
新しいお茶が淹れられるのを眺めつつ、気が付いたら教本を読破していたアウローリィアは口を開いた。
「帰っていいですか?」
「なりません」
即答した女官に、アウローリィアはむっと口を尖らせた。
「私、今日は講義があったんですけど」
「それは申し訳ございません。ですが、今暫くお待ちくださいますよう、お願い申し上げます」
暫くにしては時間がかかり過ぎているのではないか。いい加減に手持ち無沙汰なアウローリィアは苛立ちを覚えながら本を置いた。
「というか、そもそもどなたが私を呼んだんですか?」
「お聞きになられていないのですか?」
「全然です」
「……確か、お迎えに上がったのは殿下の馬車だったと伺っているのですが」
殿下。イルデトゥスにおいてそう呼ばれるのは、王族の中でも当代の直系とその配偶者とされる者たちだけだ。
そしてその中で剣と鷹の組み合わせを持つのは、ただひとりしかいない。
「アウローリィア様をお呼びになられたのは、ギルバート王子殿下でございます」
「…………」
不意に応接室の外が騒がしくなる。恐らく宮の主が帰って来たのだろう。
いくつ目かの焼き菓子を口に運ぼうとしていた女王が、不思議そうに小首を傾げる。
「どなたです?」
「……現王の第一王子」
開かれた扉から現れる男を、アウローリィアは感情のない青い眼で見た。
ギルバート・レイ・グラディウス。
第二十四代イルデトゥス国王の第一子である彼は、幼少のみぎりから文武ともに優れ、公明で誠実な性情と相まって、最も玉座に近しいとされている王候補者だ。
王召喚の儀では第三代国王を呼び出すことに成功し、儀式の時にアウローリィアの隣を埋めた男でもある。
アウローリィアが彼と顔を合わすのは、昨日と合わせてこれで二度目だ。
年の頃は、今年で二十二歳。彫が深くよく整った秀麗な顔立ちに、アウローリィアよりも頭ひとつは高い長身。手足もすらりと長く、かといって頼りないということが全く感じられない四肢は、纏っている政務官の黒い衣装の上からでもよく引き締まっていることがわかる。
肩に付かない長さの黒髪はよく手入れがされているのだろう、見るからに艶やかでありながら、彼が動く度にさらりと靡いている。
見下ろしてくる漆黒の双眸は、アウローリィアの女王とよく似た色だ。切れ長で涼やかな目元で精悍に輝く様は、王より鷹と剣の標を与えられただけはある。
そもそもの話、末端とはいえ王族であるアウローリィアにも姫雛鳥と菫の標があるのだが、日頃使わなさ過ぎてすっかりと忘れていた。
はて、国王陛下より賜った自分の印章は何処へやったか。確か老婦人が管理してくれている筈などということと考えつつ、アウローリィアは長椅子から立ち上がった。
「急に呼び出して済まなかったな、アウローリィア姫」
申し訳ないという割には鷹揚な態度を取る王子に、アウローリィアは澄まし表情で一礼する。
「ご機嫌麗しく、王子殿下。お急ぎの御用と伺いましたが」
「ああ。なるべく急いで聞きたいことがある」
なるべくなら講義の後でもよかったのでは。内心で舌打ちしつつ、アウローリィアは勧められるまま長椅子に座り直す。
第一王子が呼び出した王は姿が見えない。エディルーシアがそうしていたように王子の中に隠れているのかとも思ったが、そうする理由が見当たらない。席を外しているのだろうか。
「アウローリィア・ジーナ・ヴィオラ姫」
久しく呼ばれることのなかった、アウローリィアを王族たらしめる名。先程よりも近くなった目線の高さに、喜びよりも緊張を覚えつつ、アウローリィアは姿勢を正す。
同じ王候補者でも、方や直系王子、方や親なしの末端王族。本来の予定者を押し退けて初代女王に選ばれたのだ、きっと言いたいことはたくさんあるだろう。
果たしてどんな罵詈雑言を吹っ掛けられるのか。真っ直ぐに見つめてくる漆黒を見返し、アウローリィアは何を言われてもいいように固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「単刀直入に訊くぞ――どうして晩餐会に来なかった?」
だがその質問は、ちょっとどころでなく想定外だった。
「……はい? 晩餐会?」
言葉の意味は分かっても、何をさしているのかわからず、思わず鸚鵡返しをする。
アウローリィアが自分でも間が抜けていると思っていると知ってか知らずしてか、対面の王子は鷹揚に頷いた。
「ああ。昨夜、あのあと王宮で開かれた晩餐会だ。初代が来なかったから、どの王も気を悪くされた。折角建国の祖に
「ま、待って下さい!」
気が付けば礼儀に反するということも忘れ、アウローリィアはギルバートの言葉を遮っていた。
晩餐会と言われても、アウローリィアには微塵も心当たりがない。なのにいきなり責めるように詰められても困る。
混乱のままに腰を浮かしかけ、だがその勢いはひと瞬きもしない内に引っ張られた。
「っ……?」
何事かとつんのめった手元を見ると、横から伸びて来た白い指先に袖口を摘ままれていた。そのまま腕から肩へと視線を滑らせれば、澄んだ夜水面にぶつかる。
「あ……」
それこそ波ひとつない平静な水面に似た双眸。ひどく凪いだ眼差しに暫し見惚れれば、湧き上がっていた衝動が自然と鎮まっていく。代わりに起こるのは、言い表しようのない羞恥だ。
「あ、あの……」
「大丈夫ですよ、アウローリィア」
「でも」
いくら今は同じ王候補とはいえ、階位の高い王子に対して危うく怒鳴りつけてしまうところだった。そもそも話を途中で遮ってしまうこと自体、王族どころか貴族令嬢にもあるまじき行為だ。仮にも姫と呼ばれる身に、全く相応しくない。ありえない。
そうやって己の言動に狼狽えるアウローリィアを宥めるように、女王は静かな声で歌うように言葉を紡ぐ。
「お茶がすっかり冷めてしまいましたね。新しくお淹れ致しましょう」
袖を掴んでいた指から、力が抜ける。代わりにその繊手はギルバートが入室した際に新しく淹れられたポットへと伸び、アウローリィアのカップにおかわりを注ぐ。
「どうぞ、わたくしの可愛い王」
「……ありがとう、ございます」
長椅子に座り直し、大人しくカップを手に取る。どちらにせよ話を遮る形になってしまったが、流石の王子も初代女王相手に苦言はなさそうだ。
馴染みがなくとも明らかに上等な馨しい香りを深く吸い込めば、幾分か落ち着いた。
アウローリィアは茶で唇を湿らせると、改めて王子に向き直った。
「大事なご予定をすっぽかしてしまったようで申し訳ございません。ですが、私は殿下の仰る晩餐会があったことを、今の今まで知りませんでした」
「は?」
今度はギルバートが胡乱げな顔をする番だ。眉根を寄せ、唇を固く引き結んでいる少女を見返す。
「召喚の儀の前に報せがあっただろう? 王の召喚に成功した者は、親睦を深めるために共に食事を取ると」
「初耳ですが」
「……そんな訳がないだろう」
そう言われても、アウローリィアの下に届いたのは、『召喚の儀に参加せよ』という王命だけだ。日頃、王族でありながら表に出ることのない少女主人を不憫に思っている老婦人が、張り切って何度も書状を確認していたのだから間違いない。
「召喚の儀の後の晩餐会は、王候補の選抜が始まった時からの慣習だ。イルデトゥスの王族なら、少なくとも第七代から続いている習わしを知らぬ訳でもあるまい」
どうやら上位の王族の間では常識のようだが、末端王族のアウローリィアには全く関知しないことである。両親がいれば、あるいは知っていたかもしれないが、それはどうしようもないことだ。
「……知らないものは知りません」
男の漆黒の双眸が細められる。女王とよく似た色は、だが隣に座る女王とは違って、次第に剣呑さを増していく。
「俺のところにはちゃんと文書が来てた」
「私には来てません」
「本当に? 国王陛下の名が入った文書だぞ?」
「本当ですってば!」
疑いを多分に含んて探ってくる眼差しに、膝の上に置いた指先が冷えていく。目の前の王子だけではない、控えている侍従も女官も、同様の視線をアウローリィアに向けている。
信じてくれない。そう覚った瞬間、耳の奥で何かが痛いくらいに張り詰めて。
「自分が持っている側だからって、皆がみんなそうだと思わないで下さい」
ただでさえ危うかった部屋の空気が、完全に凍り付く。第一王子も、控えている使用人たちたちも。誰も彼もが息を呑んで、激情に深青の双眸を煌かせている少女に絶句している。
アウローリィアはというと、自分のものとは思えない冷えた声に内心で酷く驚いていた。だが対面で目を瞠っているギルバートに覚られないよう、すぐにふてぶてしく顔を逸らす。
「嘘だと思うのなら、調べてみてはいかがですか? 正式な文書なら、担当部署に記録が残ってる筈です」
視界の端で、侍従の青年が弾かれたように部屋を飛び出していく。まさか気付かなかったわけでもあるまいにと思ったが、今この瞬間の状況を鑑みれば、本当に思い至らなかったかもしれない。
思わず吐きかけた溜め息を呑み込み、アウローリィアは未だ吃驚しているらしき王子とは目を合わさないまま捲し立てた。
「御用はこれだけですか?」
「……ああ」
「では私たちは下がらせてもらいます……行こう、エディルーシア」
「はい、わたくしの王」
女王が手にしていたカップを空にする。慌てて新しい茶を淹れようとする女官を片手で制し、アウローリィアは長椅子から立ち上がった。
アウローリィアは無表情で退室する。そんな少女王族にギルバートは呼び止める素振りもなく押し黙り、城仕えたちは恐縮し切ったように首を垂れる。
不穏な空気の漂う応接間で、ただ建国の女王だけが、相変わらず何事もなかったかのように微笑んでいた。
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