形に触れる_1
なんだか肌寒い。夢現で身震いしたアウローリィアは、暖を求めて掛布に潜り込もうとした。
だがそれより先に、柔らかなぬくもりが首元まで覆い被さってくる。
「…………?」
屋敷に仕えて来る老婦人かと思ったが、彼女は勝手に主人の部屋に入って来るようなことはしない。多くはない他の使用人たちもまた然り。
ならこれは一体誰だ。
胡乱に思いながら、重たい瞼を開く。自分以外誰もいないはずの広い寝台。そう思っていたアウローリィアの目に飛び込んできたのは、眠る女の顔だった。
「ぇ……?」
閉じられた瞼、黒々として長い睫毛、それが白い頬に落とす影。
癖のない鼻梁、白い肌、薄紅色の唇。
「…………」
瞬きを繰り返している内に、頭の中が覚醒していく。同時に、知らない花の香りが吸い込んだ空気に混ざり始める。
そうして漸く目の前にいるのが誰か覚ったアウローリィアは、声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。
王候補者選抜の儀の後、自分の屋敷に帰ってきてからのことは、正直よく覚えていない。
白ローブを脱ぎ捨て夕飯もそこそこに、軽く湯浴みしてそのまま寝台に倒れ伏したところで記憶が途切れている。
ふと、無意識に触れた己の髪にアウローリィアは目を瞬かせた。碌に乾かさずに寝た割には、手触りが柔らかい。
「ああ、貴女の髪ならわたくしが乾かしておきました。まだ冷える季節ですもの、お風邪を召されてなりませんし」
「あ、ありがとうございます……」
素直に礼を口にして、アウローリィアはぎょっとしながらまだ眠っていると思っていた女を見た。
横たわったまま薄く目を開いたかつての女王は、あからさまに狼狽えている少女に向かってふわりと微笑む。
「おはようございます、アウローリィア」
「……おはようございます」
女王が起き上がれば、白い敷布の上に長い黒髪が流麗な線を描きながら広がる。掛布から抜け出した白い脚は、柔らかな朝日に照らされて煙るように光っている。纏っているのはただの生成りの寝間着だというのに、起伏に富んだ体形は生地の上からでもはっきりと伺えた。
寝起きだからだろうか、彼女の纏う気怠い空気と相まって、この上なく蠱惑的だ。
アウローリィアは思わず自分の身体を見下ろした。
歳の割に小柄で、薄い身体付き。顔は整っている方だとは思っているが、まだまだあどけないと言った表現が相応しい。
記録からして外見年齢は二、三歳ほどしか変わらない筈だが、この差はどうしたことか。
「どうかなさいました? 今朝のお支度も手伝いましょうか?」
「じ、自分でできます!」
半ば反射で叫びながら、アウローリィアは寝室に隣接している小さな浴室に飛び込む。扉を閉める間際、くすくすと密やかな笑い声が聞こえた気がした。
軽く顔と身体を洗い、歯を磨く。手早く梳った灰がかった金髪をいつも通りに二つに分けて耳の後ろで結わえ、化粧は軽く保湿して色のない粉を叩くだけ。
下着を身に着け、室内着にしている若葉色の簡素なドレスに着替えれば、最低限の支度の完成だ。
エディルーシアの方はというと、いつの間にか生成りの寝間着から深い紅のドレスに着替えていた。
一体何処から出して来たのか、召喚時のものではなく、身体の線に沿う形をしている。襟は首元まで詰まっているが、見えないからこそ、寧ろドレス越しの曲線が艶めかしいのは寝間着と同じだ。
背丈ほどある長い黒髪はひとつに纏めて緩く編まれ、ドレスと同じ生地をリボンにしている。靴もドレスと同じ色だが、意外にも踵が高くない。室内用だからだろうか。
特に言葉もなく共に食堂へ向かうと、朝食が用意されているところだった。
チーズを添えたパンと燻した肉と野菜のスープ、そして温められた牛乳。貴族の朝食だとしても質素な皿は、今日は二人分だ。
「女王陛下のお食事もこちらでよろしかったでしょうか……?」
祖母の代から屋敷に仕えてくれている老婦人のエルザが、恐る恐ると言った体で尋ねてくる。
アウローリィアは女王の顔を見た。朝から穏やかな表情をした彼女は、花開くように頬を綻ばせている。
「ありがとう。十分ですよ」
女王は世話をしようと身を乗り出すエルザを片手で制すると、滑るような足取りで一番奥の椅子に向かった。いつもは誰も座っていない椅子を引き、未だ食堂の入り口に立っているアウローリィアを見やる。
「どうぞ、アウローリィア」
「えっと……女王陛下?」
序列的に、奥に座るのは女王ではないのか。困惑するアウローリィアに対し、女王はお澄まし表情だ。
「召喚された時点で、わたくしは貴女の使い魔。どうぞ、エディルーシアとお呼びくださいませ」
さあ。女王の笑みの促され、アウローリィアはおずおずと席に着いた。
「……ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
当たり前のように向かいの席に着き、女王は胸の前で手を組む。それが食事の挨拶の仕草だと気付いたアウローリィアは、慌てて口を開いた。
「み、実りをもたらしたもうた大地に感謝を」
「感謝を」
「……いただきます」
「いただきます」
そうして始まった食事は、しかしいつもと変わらず静かなものだった。
アウローリィアにはもう十年以上誰かと朝食を共にした記憶がない。女王には色々と訊きたいことがあるのだが、食べている最中に話しかけるのは失礼ではないかと思うと何も話しかけられない。
そうして、カラトリーが食器に触れる音だけが床の上に落ちては転がっていく。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
特に会話のないまま、食後の茶が運ばれてくる。
今日は紅薔薇の花茶だ。花の盛りなのもあるだろうが、きっと昨夜の女王の大輪のドレスを見たエルザが気を回したに違いない。
「あ、あの……エディルーシア」
茶が淹れられる最中、意を決して名を呼ぶと、女王はふわりと微笑んだ。
「なんでございましょう、アウローリィア」
「えっと……その……」
いざ話しかけたはいいが、何から聞けばいいのか。
昨夜から頭の中をぐるぐると駆け回っている諸々は、口を開いた途端にいっぺんに出ていきそうになっている。だからと言って脈略なく喋り倒せば、目の前の女王は辟易してしまうだろう。
「ゆっくりでよいのですよ、アウローリィア。貴女の知りたいことは、わたくしが何でも教えて差し上げます」
女王は相も変わらず穏やかに微笑んでいる。もしや笑顔以外の表情がないのではないのか。
だが彼女の笑みと澄んだ声は、アウローリィアの混乱を落ち着かせるのには十分なものだった。
アウローリィアは大人しく整理することを観念すると、そもそものことを尋ねることにした。
「王候補の選抜って、結局なんなんですか?」
自分は所詮前座だと認識していたため、王の召喚は完全に他人事だと思っていた。
だからアウローリィアは、儀式のことについて一般に流布していることしか知らない――王に相応しい者の前に、過去の王が現れるということだけを。
「あれは、過去の王が次代に相応しい王を選ぶための儀式でございます……歴代の王の魂がこの国の大地に記憶されることはご存知でしょうか?」
「はい」
イルデトゥスの大地には、歴代の王の魂と記憶が眠っている。
それは他国にも知れ渡っている、イルデトゥスの神秘とも呼ばれる特異性だ。
「記憶された王は、時期が来ると王族の中から王に相応しいと思う者を推薦するために顕現します。そして選んだ王候補者を大地から引き出した歴代の王の智と自分本来の能力を用いて教育し、同様に選ばれた候補者たちの中から次の王を選ぶ。それが、この国の王位継承の儀でございます」
滔々と流れる説明を聴きながら、僅かに蜂蜜の味がする花茶を舐める。腹が満たされて体温が上がって来たからか、女王の話は素直に頭の中に入ってきた。
「今は纏めて王召喚の儀と称して一度に推薦しているようですわね。教育期間も一年と区切って明確になっています」
「それで、なんで過去の王様が使い魔扱いになるんですか? 教育係なんでしょ?」
「それは呼び出した王の魂を地上に繋ぎ止めるための契約魔法が、一般的な使い魔契約をもとにしたものだからです」
アウローリィアは眉根を寄せた。王召喚の儀で広間に集められた時から今この瞬間までの記憶を手繰るが、それに値するようなことをした覚えが全くと言っていいほどない。
「契約っていつしたんです……?」
「貴女がわたくしに名乗った時に」
「……全然気が付かなかった」
「あら。では一度ご覧に入れましょうか」
瞬間、アウローリィアと女王の胸元から紅い光が溢れ出した。ぎょっと目を剥くアウローリィアの前で、双方から伸びた光はテーブルの上で絡まり合う。
そうして二人の間に広がったのは、大輪の薔薇を思わせる純白の紋様だった。
「これが、わたくしたちの契約の証。貴女がわたくしの選んだ王であることの証明でございます」
ただの光だというのに、匂い立つような美しさ。
「エディルーシアは、私を王にしたいんですか……?」
呟きは無意識だった。だがそれは最も知りたかったことのひとつで……アウローリィアは得も言われぬ震えを覚えた。
そんな少女の内心を知ってか知らずしてか、白い光の向こうで、女王はやはり微笑んでいる。
「アウローリィアは、王になりたいですか?」
「…………」
その問いに対する正しい答えがわからなくて。
アウローリィアはただ俯くことしかできなかった。
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