第12話 辺境までの道程(温泉にて他方)
辺境へ行く事になって、漸く婚約者に名前をーーイル、と愛称を呼んでもらうように伝えられた。
やっとだ。
「殿下、婚約者様に名前を呼んでほしくないのですか?」
一緒に辺境へ行く事になった影が、真剣な顔で口にした疑問に、オレは心臓が砕けるかと思った!
「な、ま……え……………?」
ナマエ。なまえ。名前……とは、あれか。オレのイルミナリ、というこの名前か。
「最初にお会いになった日、殿下はご令嬢に名前を名乗りませんでした。ご令嬢は、その時から殿下と呼ばれており、殿下はそれに返事をされたため、以後定着しております」
やけに畏まった口調で、影が告げた。
その冷たい責めるような声音に甦る記憶。
『セッター辺境伯家の次女セレインと申します』
『そうか。婚約者となるのだな。よろしく頼む』
可愛らしい姿に、強者のオーラ。
控えめな微笑みに心臓が落ち着かず……。
ああ、オレは婚約者に名乗りをしていなかった……。だから、ずっと殿下か第二王子殿下としか呼ばれなかった。
ーーいや、呼ばせていないんだ。
セレインに愛を叫んで以降、とにかく側に居たい……離れたくないと愛おしさばかりが先走ってしまう。そして、忘れた頃に過去の己の所業を突きつけられるのだ。
姉上の夜会でセレインに愛を叫んでしまった後、両親に毎日叱責されーーそういえば何故か
愛称呼びをお願いした時、彼女は名前呼びを許していなかったことを責めなかった。
……どちらかというと、『そうだったな』くらいの反応だった気もする……。オレの今までのやからしが酷すぎて、最早名前のことなど大したことではないのかも知れない。
「あり得る……」
近づいても触れても恥じらってはいるが嫌悪を感じてはいないようなので、嫌われてないと思う。
もし嫌われたとしても、もう離れられないかもしれない。ーーいや、離れるのは、無理だ。
どこもかしこも魅力的な薫りがするし、どこへ口付けても甘く、触れたら胸の奥が疼くような……
「殿下、全て声に出ております。かなり、キモ……恥ずかしいので、お止めください」
「す、すまない」
影がいることを忘れていた。彼は、オレが産まれた時から専属の影として仕えてくれている一人だからか、時折息子か何かを見るような目をしてくる。
先日、辺境伯夫人に吹き飛ばされた残り二人など、歳のせいもあるのか祖父母のごとき眼差しを隠しもしない。
「嫌われてなくて良かったですね。まだ、安心はできませんけど」
影の言葉がぐさりと刺さる。
「ところで、ロボスはどうした?」
ここは、行程最初の宿泊施設だ。昼に話していた温泉のある……温泉の……、ある、宿だ。
「風呂に入れるか確認してくる、と先程ーー殿下?」
ーー風呂。
温泉だから、当然入浴は温泉だな。勿論、風呂だな。湯に浸かるのだ。
「……なんとなく、考えていることは伝わりますが、我々は警備の都合でどちらかが殿下とともに温泉に入ります。勿論男湯です」
「……わかっている。勿論だとも」
「殿下は、ご婚約者様が関わると、信用しづらくなりまーーあ。聞いてませんね」
この辺りから南は火山が多くなるため、あちこちに温泉が沸いており、我が国の誇る風呂文化が根付いている。
ここの温泉は、案内によると美肌に良いと評判らしい。
「青春しているところ、申し訳ないんですが若君」
突然真横から聞こえたロボスの声。
「なっ、ナンだ!?」
心臓がはね上がり、口から飛び出すのではないかと焦った。ドッドッと耳の奥で鼓動が刻まれる。
「お嬢様とラミアは入浴を済ませ、食事をしてから休む、とのことです」
「ーーそうか」
……そうだな。
流石に疲れているだろうし、それが良いだろう。
「なんか、えらい悲しんでますねー。オレ、そんな衝撃的なことを言ったんですかね?」
「先程、ちょっと青春してましたから。セレイン様が関わると、殿下は色々ずれていかれるので」
背後で失礼な会話が交わされたが、咎める気も起きない。
「さっさと風呂に入って、食事にしてしまおう。明日に響く」
男三人で露天風呂に向かった。
ロボスの鍛え上げられた肉体も、影の細身の引き締まった肉体も、湯でさらに磨かれて輝いており、絵のような風景と相まって男の
いや、あの方は男同士の筋肉が、とか言っていたな。
……現実から目を反らすのは止めよう。
「いいお湯ですね~。美肌でモテモテにな・り・そ・う」
「男の足を見ても嬉しくはないですね」
湯の中から足を付きだし、
確かにいい湯で疲れも取れ、肌にも良さそうだ。素晴らしい観光資源として国も注目しているだけはある。
運の良いことに時間が早いせいか、貴族用の風呂だからか、他に客はいなかった。
これならば食事も期待できるだろうな。
男三人で部屋のテーブルを囲う姿を想像してしまい、少し寂しさを感じるが仕方ない。
ナイトガウンを羽織り、部屋に戻る途中。
ーー見つけてしまった。
「セレイン……」
湯上がりなせいか、ほんのりと頬が赤く染まったナイトガウン姿の婚約者を。
気づいたら、朝だった。
何か幸せな夢を見たような気もする。
「あ、起きられましたか。昨日は突然倒れたので驚きましたよ。そんなに長湯をしたつもりはなかったんですが、逆上せてしまったみたいですね~」
朝食を届けに来たロボスが教えてくれた。
そうか、温泉の後に倒れてしまったのか。
「少し、鼻血も出ていたのでしっかり水分を採って下さい」
鼻血……?
「温泉は、慣れていないと湯中りしますから。ゆっくり召し上がって下さいねー」
そう言って部屋を出たロボス。
鍛え上げているつもりだったが、情けないことに倒れてしまうとは。
朝食を終え、準備を済ませると再び馬車で進みはじめた。
母が側近と考案した特別性の馬車なだけあって、一週間から十日ほどで辺境に着くらしい。
昼は賊や魔物を倒し、セレイン達に鍛えられ、夜は宿に泊まりセレインを想って過ごす。運が良ければ湯上がりのセレと食事をともにする。
充実した日々だった。
昨夜はお茶に誘うことで、風呂上がりのセレインを抱きしめることができた。
このところ馬車でしか抱きしめられなかったからか、湯上がりのいい匂いやいつも以上の柔らかさを堪能し、なかなか止められなかった。
「イル様!」
叱るような声であっても、名前を呼ばれると愛おしさが溢れて止まらない。
しびれを切らしたラミアに蹴り飛ばされて自分の部屋に放り込まれなければ、そのまま朝を迎えられたかもしれない。
ああ、とうとう明日は辺境伯領に入ってしまう。
産まれて初めて味わった、ゆったりした時間は終わりだ。
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