第105話 目覚め
心は怒りと寂しさに波立ち、苦しさと悲しみが低く垂れ込んでいた。
それでも、出てくるのは溜息しかなかった。
ベッドに腰かけたままで、何をする気力も起きない。目覚めてから半日以上、こうしたままだ。
坂本と藤沢、二人と共に帰ることだけを考えて張りつめていたものが、切れてしまった。
何も考えられないし、何も出来ない。改めて感じる。おれは、それだけの人間に過ぎない。何の力もなく、考えもない、小さな者に過ぎない。
枕元に置かれた紙の束に目が止まった。坂本が書き留めていたものだ。寝食を忘れて書いていた、この世界に残した坂本の証だ。
それを広げてみる
版籍奉還、秩禄処分、廃藩置県に金本位制と管理通貨制など細かく記されている。
びっしりと書かれているが、日本語だ。これを読めるのは、レイムくらいだろう。
パラパラと捲るその手が、最後のページで止まった。
――隆也へ。これを読む頃には、目覚めている時だと思う。俺はやっと気が付いた。生まれてきた意味を知ることが出来た。なぜかは分からないが、死ぬことは少しも怖くない。藤沢も同じ気持ちだったと、今なら分かるよ。だから、藤沢も笑っていたんだ。残念なのは、隆也が王として立つ姿を見られないことだけだよ。俺たちが誇れる王になることを信じている。この世界にいるならば、いつかまた会えるよな。だから、さよならは無しだ。生まれ変わって、今度はこの世界の友達として三人でゆっくりと会おうな――
走り書きした文章だ。霞む文字に、顔を上げた。
また会えるよな。また、三人で話せるよな。
ベッドに座り直した。
何だよそれ。勝手に納得しているんじゃない。おれもまた歩み出さなくてはいけないじゃないか。
知っているだろう、おれはいい加減な奴なんだよ。
窓に目を移す。眼下には何台もの馬車が並んでいた。崩れた石組みの壁も片付けが始まっている。
立ち止まっていても、周囲は動いている。
坂本、藤沢。今度は、住み易い世界で会おうな。
「カザム」
声を掛ける。
僅かな遅れもなく扉が開かれた。
カザムとアベル、それに一族の者たちまでそこに控えている。
あれからどのくらい時の流れたのか、ずっと外で待ってくれていた。
「主上、いえ王よ。お目覚めになられましたか」
このお目覚めというのは、前に進むと同義なのだろう。
「待たせていたみたいだな。ありがとう」
礼を言うと皆を見渡した。
張りつめた顔でこちらを皆が見ている。そういえば、権力と距離を取りたいと言っていたな。王宮には入らないと言っていたな。
「話しておきたいことがある」
「お話ししたい、義がございます」
声を出したのは、アベルと同時だった。全員が頭を下げている。
先に話を聞いておくべきだろう。おれと別れたいという話を。
「分かった。先に聞こう」
「ありがとうございます。話しておきたいことは、二つございます」
アベルが顔を上げた。
「一つは、イグザムが殺されました。わしとルーフス、イリヤ、フランの四人と騎士が二人、地下牢にいました。そこに現れた何者かによって、わしたち六人は床に押し付けられ、指一本も動かせない間に牢は破らたのです。イグザムは身体中を引き裂れました」
アベルたちを抑えつけ、イグザムを殺すか。とんでもない化け物がいるのだな。
「顔も見れなかったのだな」
「はい。ただ唯一見られた足元と声を聴く限り、少女のようでした」
「お前たちに怪我はないのか」
「はい。身体を抑え付けられただけでした」
「それならば、いい。お前たちが気にすることはない。それで、もう一つは」
「ですが、王が裁くと言われたにも関わらず」
「それだけ、厄介な者がいることだろう。怪我がないだけ、良かった」
「心遣い、感謝します。もう一つは、以前にお話をした通り、権力に近づかぬようにしております。王宮には入れません」
それは曲げられないということのようだ。
「王宮か。しかし、それは組織としての王宮だろう」
「権謀には巻き込まれたくありませんので」
「それならば、一族はまとめておれが直接、雇い入れる。それではどうだ」
「しかし、それでも」
「アベル、カザム。この世界にいる限り、おれに付いて来てくれるのではないのか。それとも、最初におれが言った、離れてもいいという失望に値するのか」
「とんでもございません。失望どころか、心服しております」
「では、おれを助けてはくれないか。おれはこの国を立て直す。それには、信頼に足りる皆の力が必要だ。これ以上、おれから奪うのはやめてくれないか」
だめだ、高ぶる感情を抑えることすら出来ない。
わずかな間を置き、カザムが顔を上げる。
「王よ、お察し致しますが、王宮には王を補佐する官吏もアセットもおります。信頼に足る者も多くいましょう」
「だが、お前たちはいない」
「お気持ちはありがたいのですが――」
「失礼しやす」
カザムを遮るように声が響いた。
「王よ、あっしは下っ端の下っ端で、意見を言える立場じゃないのは重々承知です。ですが、皆に言わせてください」
床にぶつけるように頭を下げたのは、ルーフスだ。
「力は足りねえかもしないが、王が少しでも楽が出来、安心出来るならば、立つ位置は関係ねえと思います。あっしらは忠を誓ったはず。王が、いや、あえて主上と呼ばせて頂きやす。主上がここまで言って下さるのを蹴るのは、忠に反するのじゃないのですか。あっしは、王様とは距離を置こう考えてやしたが、考えが変りやした。主上にここまで言わせて、黙っているわけにはまいりやせん」
その言葉に、皆が口を閉ざした。沈黙が部屋を支配する。
「主上のお蔭でイグザムを捕縛出来た。主上のお蔭で流浪の旅から解放される。主上のお蔭で皆が進むべきを道を見つけた。それが、王宮に入るってだけで袂を分かつって言うのは、納得できねえ。恩も義理もまとめて捨てやすか」
ルーフスはその目をカザムに向ける。
「カザム様にも失望しやした。身命を捧げると誓った相手が王ならば、その誓いは取り消せるのですか。では、教えて貰いてぇ。誓いってのは何かを」
その言葉に、困ったように溜息をついたのはアベルだ。
「だから、ルーフスには言っておけと」
アベルはその目をルーフスに向けた。
「カザム殿は、距離を置いて陰ながら補佐するおつもりだ。それは、王にも知られぬようにな。カザム殿の誓いに、偽りはない。そして、それはわしも同じだ。お前に言わなかったのは、一族を巻き込まないためだ」
「カザム、なぜ距離を取る」
傍らで頭を下げるカザムに目を移した。
その言葉に、
「自分がいれば、王宮内で王にいらぬ波風を与えてしまいます。距離を置くのが、得策です」
カザムがさらに深く頭を下げた。
「わしら一族も王に対する恩義は忘れません。常に王を見守り、尽力しますが、側にはいられません。官吏に変に誤解されてしまいます」
得策に誤解か。
「ルーフス、ありがとう。ルーフスのおかげで、真意を知ることが出来た。そこで、皆に聞きたい」
全員に目を戻した。
「おれは、二度死んでいる。今ここにいるのは、二人の友が身代わりになってくれたからだ。死を見た以上、覚悟は出来ている。それでも、そこまで頼りないのか。王宮に波風が立つことを危惧する程度の男に見えるのか」
再び息を付くと、続けた。
「おれは国を立て直すと言ったが、その前には壊さなければならないものもある。王宮に嵐を起こすつもりだ。その嵐の中で助けがいる。嵐の中で起こる波風など、何の意味がある」
全ての視線が集まった。
「おれをなめるな。一族はおれが護る。その上で、もう一度頼む。皆はおれ個人の従者になってくれ」
様々な思いと単語が頭を駆け巡るが、出て来たのはその言葉だけだった。どんな美辞麗句もない、ただ真直ぐな願いだけだった。
「分かりました。わしらが間違っておりました。一族はこれまで通り、付き従います」
重い声でアベルが答え、カザムも頷く。
昏く、淀んだ世界に光が差し込む一言だった
「礼を言う。おれ個人の従者になって貰うのだから、先ほどのルーフスの言う通り一族には王という敬称はなしだ。今まで通り呼んでくれ」
「主上、そう呼ばさせて頂きます」
それでいい。彼らを組織に入れて自由闊達さを失くせば、長所をもなくさせてしまう。
ベッドに座るその肩に、カザムが外套を掛けてくれた。
立ち上がれと言っているのだ。感傷に浸る暇はないのだ。
「早速だが、これからの打ち合わせをしたい。おれが王都に入るまでにやってもらいたいことがる」
皆の顔が上がった。
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