第37話  脱出


 床は蓋のように閉じられ、周囲は闇に包まれた。

 細い梯子は下に伸びている。

 しかし、暗闇の中で身体に力も入らず足を滑らせるしかなかった。派手に地面に落ちたが、もうどこが痛むのかも分からない。


 小さな笑い声が聞こえ、それに重なるように、

「静かに。こっちへ」

重い声が流れてきた。


 立ち上がると奥に進む。

 感覚の鈍くなった右手が刀を引きずっている。

 そうだ、肩は――右肩に手をやった。 

 

 防具の肩当てが砕かれているが、斬られてはいなかった。それでも痛みは激しい。

 治れ。肩に当てた手に想いを込めながら進んだ。

 いや、痛むのは肩だけではない。戦いに気を張っていたからか、今になって全身が悲鳴を上げているようだ。


 激しい闘争の音はどこか遠くで聞こえ、曲がったトンネルの奥には小さな明かりが見えた。

 進んだ先は少し広くなっており、宙に浮いた光が木材で補強された空間と、そこに立つ二人の子供を浮かび上がらせている。

 あの三人だ。無事にここに隠れていたのか。

 安心感に、そのまま腰が落ちた。


「ありがとう」


 動くようになってきた右手で、抜身の刀を鞘に収める。それでも身体も重く、礼を言うのがやっとだ。


「いや、こちらこそ礼を言わねばならん。おまえ、いや公貴のお蔭で、あの化け物の注意が逸れて命拾いをした」


 なるほど、ラミエルの注意がおれに向かった為に、ここに逃げ込めたのか。

 この三人だけでも助けられた。

 良かった。本当に良かった。背中を壁に預け大きく息をつく。


「あれは、おれを追って来たのかもしれない。礼を言われることではない」

「追って来た。面白いことを言うな」


 男が手を伸ばしてきた。

 ここで休んでいる暇はないということなのだろう。それを掴んで立ち上がる。

 足にも力が入らず、ふらついてしまう。


「公貴、大丈夫か」


 男が心配そうに顔を寄せた。

 公貴か、彼らには公貴で押し通してもボロが出る。そうなれば、面倒臭いことなりそうだ。


「街道には出られない身」と、冗談交じりに言っていた言葉が思い返される。


「おれは公貴なんかじゃない。庶民だよ、平民だよ」


 呟くように言う。


「まさか――」


 男がそこまで言った時、不意に鋭いルクスを感じた。すぐにルクスは収束し、消えていく。

 同時に闘争の音からも激しさが消える。


「とにかく、ここを離れたほうがいい」


 宙に浮いていた光が、更に奥へと続くトンネルに向かい、彼らに続いて重い身体を動かした。

 どのくらい進んだか、永遠に続くのかと思われたトンネルの先に柔らかな明かりが見え、風を感じられた。

 あそこが出口のようだ。


 先に駆け出した少年が、その出口を開けた。陽光が差し込み、風が吹き抜ける。

 トンネルを抜けた先は、森の中だ。

 立ち枯れした樹々も多いが、足元には小川も流れている。


 あぁ、生きているんだ。

 すぐ近くに見えた岩に、腰を落とした。

 駄目だ、動けやしない。


 何とか水筒を口に運ぶが、とてもこれでは追い付かないほどの疲弊だ。

 カナンに送って貰ってから、まだ数時間のはずだが、彼らの助けがなければ、おれは死んでいた。

 いや、よく生き残れていたものだ。


 礼を言おうと顔を上げると、

「改めて礼を言う、わしはカザム。この子らはザクトにミリア」

先に声を掛けられ、陽光の下で改めて男を見る。


 歳は四十代だろうか、引き締まった顔立ちでその目は鋭い。

 その傍らから少年と少女が顔を覗かせる。

 彼らが何者なのかは分からない。カナンが出逢うようにしたのだろうか。

 しかし、それを詮索する余裕もなかった。

 この状態では、甘えるしかない。


「隆也という。こちらこそ、ありがとう。助かったよ」

「その様子では、動くことも出来ないようだな」

「気力も切れたようだ」


 応えると、

「そうか。では、隆也。先に傷の手当てをしよう」

男が腕を持った。


 支えられて川まで行くと、手伝って貰いながら外套を脱ぐ。身体を動かすたび様々に痛みが走った。

 すぐ傍らでザクトが火を起し、ミリアが容器に川の水を入れている。


「ロザリスの外套はおろか服まで断ち切られている。あの化け物は何だ」


 男が外套を川に浸すと、赤黒い血が流れだした。あの時に浴びた妖獣の血だ。


「ラミエルと言っていた」


 その横で、何とか防具を外していく。

 肩当てには左に深い傷が刻まれ、右は半ばまで砕け散っている。胸当てにも幾つもの亀裂と抉られた跡が走っていた。

 ベルトを外し、上着を脱ぐ。

 上着にも断ち切られた跡があった。


 本当に、よく生きていたのだ。

 それを足元に置く。先ほどまでの闘争が嘘のように、聞こえてくるのは川のせせらぎ。

 そういえばどうしたのか、静かすぎる。傍らの男に目を向けた。

 男は考え込むように傷ついた防具を見、子供たちは驚いたように手を止めてこちらを見ている。


「どうしたのだ」

「ありえない、ラミエルが現れるなど、ありえない。しかし、あのルクスと妖気は――あれがラミエルと誰が言っていたのだ」

「サラたちが言っていたから、本当なのだろう。あれは、ラミエルという天外の者らしい」

「サラ、サラ・ウェンズリー。疾風のサラ様か」


 そんな名前なのか、サラはサラだろう。それとも違うサラなのだろうか。


「礼の印綬を持つサラだ」


 その言葉に、少年が困ったように笑い出した。


「だめだよ、お兄ちゃん。そんなことを言ったら」


 どうやら嘘だと思われているようだ。

 サラはそんなに偉い人物なのだろうか、おれも笑うしかない。      


「それで、たちと言うからには他にもいるのだろう。あれをラミエルと言った者たちが」


 カザムだけが鋭い目を向けてきた。


「ラムザスにシルフ、アレクとレイムだ」

「ラムザス、シルフ、アレク。印綬の継承者たちか」


 カザムの言葉に、笑い声も消える。


「確かに、あれは化け物だった」

「ラムザスたちも怪我をした相手だ」


 おれも呟くように答えるしかなかった。

 おれは、生きている。それだけのことが、こんなにも嬉しく、大事なことだと初めて分かった。

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