第2話 十七歳
赤く小さな光が灯る。
やばい、やばい。頭の中で警報が鳴り響く。
すぐに逃げないと、振り向いた瞬間、何かに押されて膝を付いた。
足元に落とす視線の先に、鈍く輝く棒。いや、棒じゃない。これは槍だ。
腹を突き破った槍が地面に突き刺さっている。血がその柄を伝って地面に流れ落ち、広がっていく。
その頃になって衝撃のような痛みが走った。声も出せない。
目の前の血溜まりがぼやけていく。何だよ、これは。
「隆也、隆也」
遠くから聞こえる声に意識が引き上げられた。覗き込むような坂本の顔。
ここは。
「どうした。大丈夫か」
その声に頷く。
おれは――蔵の壁に背を預け座り込んでいる。
「寝ていたのかい」
藤沢の声が落ちてきた。
寝ていた――、こんな夢を見たのは何年振りだろうか。幼い時は頻繁に見た、殺される夢。
臨場感があり過ぎて、自分の手が今も震えているのが分る。
でも、どうしてここで寝ていたのか。
そうだ。あの少女と妖精は。
蔵の中に目を戻した。夕陽に橙色に染まったそこは、静まり返っている。
あれも夢だったのだろうか、それとも実際に見た幻覚なのか。
どちらも現実のように感じ、それゆえに感覚が曖昧になっている。
起き上がろうとしたその足に力が入らず、手で身体を支えた。
「藤沢と一緒に来たら、隆也が家にはいないだろう。買い物にしてもいつまでも待っても帰って来ないし、裏に回ったら蔵の戸が開いていたから見てみたんだ。まさか寝ているとはな」
坂本の呆れた声を聞きながら奥に進む。
すぐにその足は止まった。床に何かが描かれていた。
三重の丸い線に幾何学模様のような記号。何かの紋章のようにも見える。
これは。
「どうしたの」
藤沢が横から覗き込む。
「これ」
その紋章を指さした。
「これって」
藤沢は不思議そうに顔を向けるだけだ。
これが見えていない。
「なんだ、どうしたんだ」
その紋章を踏んで坂本が進んだ。床のそれには目も向けない。
やはり見えていない。
これも幻覚。だけど、こんな幻覚は見たことがない。
「それで、どうして蔵にいたんだ」
「そうだよ。だけど、懐かしいね。昔はここでよく遊んだね」
「こ、ここで久しぶりに集まろうかと思ってな」
気を落ちつけながら言う。
「それはいいな。昔よく遊んだ二階にしようぜ」
坂本がそのまま階段を登る。
おれは彼が上がり終わるのを見てから、階段に手を掛けた。
驚く声も聞こえない。ならば大丈夫のはずだ。
蔵の二階は、隅に昔の長持ちや箱が積まれているだけで、中は広く、小さな窓からは夕陽が真っ直ぐに差し込んでいる。
しかし、ここもだ。
同じように床の中央に変な紋章が描かれている。
立ちすくむその横を藤沢が進み、その中央に立った。
やはり、見えていないのだ。
はっきりと描かれたこれも、幻覚。おれはどうなっているのだろうか。
「いいね。ここにしようよ」
藤沢が笑顔で振り返る。
「そうだな。隆也、ここがいいな」
二人に言われれば断れない。少し怖いが、仕方がない。
「いいよ。じゃあ、何か買ってこないといけない。まだ、何の準備もしてない」
「それはいいさ」
「でも、何もないよ。食べるものとか買ってこないと」
「用意している」
坂本が腕を組んで胸を張った。
「用意」
「準備したのは僕じゃないか」
藤沢の不満そうな声に、
「でも、一緒に運んだだろう」
坂本が笑う。
「とにかく、食器がいるな。取りに行こうぜ」
幼い時から爺さんのいない時は、二人がここに来ていたのだ。坂本が自分の家のように、先頭になって足を進めた。
藤沢も肩をすくめて笑いながら、その後に続く。
おれたちは、蔵を出ると家の台所に回った。
土間造りの古い造りの台所だ。モルタルのシンクはタイルもいたる所が剥がれ落ち、時代の古さを教えている。
食器を取る間、坂本たちは床に転がる一升瓶を見ないようにしていた。気を使っているのだ。
爺さんの酒癖の悪さは近所にも知られている。警察も何度か来たことがあるほどだ。
おれ自身、お前のせいで楽できねえと何度殴られたか分らない。
この家は、身体にも心にも苦痛の場所でしかない。
そして、おれの唯一の居場所でもあった。
膝を抱え、片隅で蹲るしかないおれを引き上げ、支え、笑顔にさせてくれるのがこの二人だ。感謝しかないよ。
「必要なのは、取り皿とコップだけだな」
「そうだね。レジ袋にごみを入れるからそれだけでいいよ」
二人の声を聴きながら、手早く空き瓶と空き缶を片付けると、再び蔵に戻った
床の紋章を見ないようにし、奥に積まれた重い木箱をテーブル代わりに置く。
隅に置かれたこれらは、鍵が錆びて開かなくなったものだ。
さすがの爺さんもこれらだけは売り払えなかったのだろう。
藤沢が大きく咳払いし、勿体を付けるようにバッグを引き寄せた。出てきたのは、ホットプレートと大量の肉だ。
藤沢の父親は、二十店舗を超えるスーパーを経営している。そこの肉なのだろうか。見るからに高級そうなものだ。
「どう、凄いでしょう」
「凄いけど、いいのか」
どう見ても高そうな肉だ。それをこんなに大量に。一体いくらするのだろうか。
「な、覚えていないだろう。隆也は」
坂本の言葉に、藤沢が笑い出す。
「本当だね。覚えていなかったね」
何だ。どういう事だよ。
「今日は、隆也くんの誕生日じゃないか」
誕生日。そうか、おれは今日で十七になるのか。日にちも曜日の感覚もなくなっていたな。
だけど、十七歳になったと思っただけで広がっていくこの感覚は、何なのだろう。解放された感じがする。
「お祝いだよ。もっとも。俺は何もしてやれないけど、藤沢が頑張ってくれたんだ」
「頑張ったって、そんな売り物を」
「いいよ。賞味期限が残り少ないから、廃棄になるだけだよ」
廃棄、そう云うものなのか。勿体ないな、こんなもの食べたことが無い。
「さあ、焼こうぜ」
坂本も同じなのだろう。嬉しそうに言った。
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