最終話
「船が泳ぐ」(最終話)
堀川士朗
何という事だ!
元恋人の姿があった。
正美……!
かなり昔に付き合った女性だ。
女優をしている。
このオーディションに参加していたのか!
正美とは歳が十二も離れている。
今もとても若々しく感じる年下の彼女。
少女のように、可憐だ。
正美は私の姿を視認し、一瞬だけハッとした後、審査員にアクトトークンを渡して私にゆっくり近づいてきた。
そんな……。
そんなぁ……。
私は正美とは闘いたくはない。
だが、致し方ないのかもしれない。
深呼吸だけした。
私も残り一枚となったアクトトークンを審査員に渡した。
最後の一枚のトークンはシャンデリアの光を受けて青く輝いた。
正美は微笑んだ。
「ご飯食べた~?」
「ん?まだだよ」
もう演技は始まっている。
「今夜トキワ食堂行こうよ」
「あ。うん」
トキワ食堂はよく二人で行っていた居酒屋である。
柳川鍋を食べに行ったな。
懐かしい名前を出して来るなあと私は思った。
あの頃にはまだ、私たちには人権があったんだ。
「ねえ聞いて~」
「ん?どした?」
「英語の小テストを受けたんだよこないだ」
「ん?」
「そしたらさ、お父さん」
ほほう。そう来たか。
親子という設定か……。
「意味を答えなさいって書いてあったの。“easy”の単語の意味。だからあたし、“やさしい”って書いたの」
「うん」
「そしたらバツだった。親切だって意味だと“kind”じゃないかってイチャモンが入った。人に優しくの『優しい』じゃなくて、簡単な問題の方の『易しい』って意味で答えたのに」
正美は空中に指で“優”と“易”の字を書きながら説明した。
終始正美のリードでここまでの演技は来ている。
非常にまずいなと思いながら、でもどこか心の中では、久しぶりにこうやって正美と芝居が出来るのが私はとても嬉しかった。
朗読劇『君のガツを食べたい』以来だ。
「そっかそっか」
「でしょ~?全然kindな先生じゃないよ~」
「ははは。その先生は英語の前に日本語の勉強をした方が良いな」
「ほんとだよね。『易しい』って字を先生は知らないのかもね」
「うん。でも勉強は大事だ。父さん、お前には健やかに賢く育ってほしいんだよ」
「お父さん」
「ん?」
「お父さん、あたし、地下アイドル辞めたんだよ」
「え?……そうか」
「全然お客さん来ないし、グッズも売れないから」
「うん。でも初めてのライブ、あれはすごく良かったぞ」
「あの時はどうもありがとう。吉祥寺だったよね。出番は十分しか無かったけど、最前列でペンライト振ってくれたよね!」
「ああ」
「結局お父さんがあたしの一番のファンだったな」
「嬉しかったよ」
「お父さん……お父さんとお母さんが離婚しても、私はお父さんの事好きだよ……とても“kind”だから」
正美、いや、娘の頬を一筋の涙が走った。
私は動揺してしまっていた。
二の句が継げないでいる。
まずい。
審査員がこちらをジロジロと見ている。
ような気がする。
もう構うものか。
たとえ演技が破綻しても。
居てもたっても居られなくなった。
私は正美を力強く抱き締めた。
「ケ・セラセラだな。なるようになるんだ。正美の事など分からないよ」
「分からなくて」
「ん?」
「分からなくて、良いわ」
「……」
正美の瞳の涙は、もう収まっていた。
この子は瞳の中に、宇宙を飼っている。
この船の上で渦巻いているのは、演技と言う名の嘘、嘘、嘘だ。
誰も実体なんかありやしない。
そんな事……分かっているさ。
私は後ろからやって来た審査員に右肩を叩かれた。
失格だ………………!
その手はとても冷たい感触で、この世のものとは思えなかった。
連れて行かれた別室の先は階段となっており、私は船上へと出された。
黒いゴムボートに乗る。
三人の黒服と、失格者は二十人以上いて大型ゴムボートは満員だ。
スーツが海水で濡れた。
重油のような色をした水面が揺れている。
夜空。
星が瞬いている。
月は出ていない。
暗い。
暗い。
漆黒だ。
ボートに乗った誰もがこれ以上ないくらい不安な顔を浮かべている。
三人のアンドロイドの黒服はマシン語で何か会話して私たちを指差して笑っている。
急に海の中に投擲されるかも分からない。
アンドロイドたちにやらせれば、投擲され海で溺れる様も頭部のカメラで詳細に撮影出来る。
それは死んだ証拠にもなるし、商品にもなるのだ。
深い深い海の中で鮫のエサになるのは間違いない。
私たちには一切の人権はない。
遠くで光を放つ客船が見える。
私がさっきまで乗船していた船だ。
おぼろげに、幽霊船のように漂っている……。
船が泳いでいる……。
どうか正美が、このオーディションに最後まで残りますようにと心の底から願った。
ぜひともA級市民権を獲得してほしい。
THE END
(2022年7月執筆)
船が泳ぐ 堀川士朗 @shiro4646
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