人生決定
バックルームに行き、更衣室前の姿見を発見した。
姿見は男女共用のため、更衣室の外にあるのだ。
この辺は、同じ系列のスーパーなので、そのままだった。
何分、ケチ臭い事で有名だ。
店がケチる所は、大体把握してる。
「はぁ、はぁ、頼むぅ。早くしてくれぇ。いってぇよ」
肩がズキズキする。
ドラマでは包丁で刺されて動けなくなるシーンなどを見かけるが、まさか変な汗が噴き出すほど、強烈な痛みに支配されるとは思わなかった。
馬頭は天井に頭を擦り付け、姿見の前に立つ。
早くしてほしくて、脇から覗き込むと、馬頭の大きな手が鏡面に沈んでいく最中だった。
波紋の広がる鏡面を見ていると、まるで長方形の箱に水銀を溜め込んでいるかのように錯覚させる。
けれど、この先に行けば、元の世界に帰れる。
帰ったら、救急車だ。
言い訳は、遊んでいたら自分で自分の肩を刺しました。
これで行こう。
医者には絶対にバレるけど、被害届は出さないし、自分でやった事にする。
「入って」
馬頭に促され、「悪いな」と額の汗を拭い、オレは姿見に自分の手を差し込もうとした。
――パリ、パリ、……ガチャッ。
不吉な音が聞こえた直後だった。
――バンっ!
姿見を突き破ってくる影が二つ。
一人は血塗れの巨乳、田中。
もう一人は、ほぼ無傷の不知火だった。
首根っこを掴み、倒れ込んできたのだ。
二人は鏡の中から現れたわけではない。
恐らく、壁を突き破って更衣室に侵入し、中ではジグザグに暴れ回って、ちょうど姿見の掛けられている壁をもろとも破壊してきたのだろう。
姿見は表面がバラバラで、破片が飛び散っている。
幸い、オレと馬頭は変な音がした際に手を引っ込めたので、怪我はない。
「殺し、てやるぅ!」
「ぐ、がぁ……っ!」
新しい閻魔様は、鬼っ娘に負けていた。
よく見れば、不知火の着物は所々裂けていた。
首を両断しようとしても、刃が通らないのだから、全くおかしな話である。鈍器で殴られた反応だったのだ。
不知火は両手で田中の首を絞め、鼻息を荒くしていた。
力任せに細い首を持ち上げ、上下に揺さぶると、田中の頭が床に何度も打ちつけられる。
「なあ、もういいって! オレ、痛いよ! ごめん! 真剣なところ、ごめん! でも、限界なんだよ! マジで痛いんだって!」
痛みのあまり、オレは駄々っ子になった。
その場で飛び跳ね、片足で床を踏み、不知火の肩を揺さぶる。
「帰ろうよ! 邪魔するくらいなら一緒に帰ろうぜ!」
すると、不知火は叫ぶ。
「離してよ! この女殺せないじゃん!」
「こ、殺す必要はないよ。つか、白目剝いてるって……」
かつて、元閻魔の側近ポジションであった不知火。
こいつが、ここまで強かったことは驚きだ。
男の全裸やお稲荷さんに耐性がなかった事が救いだろう。
あの世で選択肢を間違えていたら、きっとオレは殺されていた。
オレが震えていると、不知火は田中の持っていた刀を手に取る。
包丁を研ぐ時の姿勢で、刃を大きな胸に当て――。
「待てって! グロいのは見たくない!」
「離して!」
慌てたオレは腕を引っ張り、不知火を後ろに倒す。
倒れた際、壁に肩をぶつけて涙が出たが、構わずにオレは叫んだ。
「馬頭! そいつを連れて行け! 他の場所にガラスがあるはずだ! 行けぇ!」
「う、うん!」
馬頭が軽々と田中を持ち上げ、ぎこちない挙動で従業員通路の方へ消えていく。足音が遠ざかるのを聞きながら、オレは不知火の腰に両足を回した。
「いやぁ!」
「落ち着いてくれよ! もう十分だって!」
「嫌だ! どうせ、帰ったって、ミツバって女と乳繰り合うんでしょ!」
考えてみれば、ミツバの奴、不知火によく勝てたな。
勝ったっていうより、対抗か。
どのみち、渡り合えるとは、末恐ろしいものだ。
「私の何がいけないの⁉ リョウの子供だって、いつでも作れるように毎日体を綺麗にしてる! 赤ちゃんの名前は決めた! 収入が少なくても一緒になる事だって覚悟してる! 何がいけないのよ!」
「そこだけ聞くと、本当に女の鑑というか、女神というか。ありがたみを感じざるを得ないんだけど……」
不知火と時間を過ごしていると、なぜか命の危機に陥ることだろうか。
あと、オレはずっと気持ちが一貫しているので、ミツバの事が未だに好きだ。
これは不知火と会う前から、変わっていない。
「二番目でいい! 側室でいいから!」
オレの手を振り解き、不知火が振り返る。
涙と鼻水で汚れた顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。
血塗れの手でオレの首を掴み、額を擦り付けるようにしてくる。
――プスっ。
「ん”っ⁉」
どこの殿様だよ、と言いかけたオレの頬に鋭利な物が刺さる。
肩に続いて、オレは顔に穴が空いた。
問題は、ここから深度が進むか、どうかだ。
「……リョウが……好きなの……」
「ん”っ⁉ ん”ん”っ!」
「大好き。何でもするから。……私と一緒にいてよ」
「ん”ん”ん”ん”っ!」
甘えるように、頭を預けてくればくるほど、オレの片頬は引き攣ったように持ち上がっていく。
「どんなに変態な事でも、……してあげる。たくさんエッチなこと、してあげるから。料理だって毎日作るし、家事や掃除だって、文句言わずにやるわ。……愛してよ」
「ん”ん”ん”ん”! ん”ん”ん”ん”っ!」
い……っ……てぇ。
顔がピリピリとしてきた。
不知火はオレを助けてくれたし、悪意はないだろう。
本人は、ここまで気持ちをさらけ出してくれた。
当初は、女性至上主義という危険思想の持ち主で、とんでもない輩だった彼女。
心を開くと、病的なまでに一途な愛をぶつけてくる女だった。
最早、ここまでくると、不知火が復讐のためにオレを殺している、なんて勘違いは起きない。
ただし、――なぜか命が関わるのだ。
これが恐怖だった。
「……リョウ。私、決めた」
「ん”⁉」
「正室は、ミツバさんでいい。私、二番目の女になる。だからね。……私と、……結婚して」
頭が持ち上がった途端、片方の目の下が『ぐいーっ』と持ち上げられた。
ダメだ。
殺される。
死ぬ。
もう、戻れないんだ。
「ん”」
不知火が「え?」と声を漏らした。
「ほ、本当? 本当に?」
「ん”」
選択肢なんて、初めからなかったんだ。
茨の一本道しか、残されていなかったのだ。
「嘘だったら、本気で怒るよ? ねえ。本気で怒るけど。本当なんだよね?」
「……ん”」
「うれしいっ!」
ぶじゅ。
変な音がした。
頬肉の感覚がなくて、ヒリヒリする。
「あはっ。……や~っと、素直になってくれたぁ」
「ほふ、ほぉ、……お、ぉぉ、い、でぇ、でで、……でぇぇ」
パッと不知火が離れると、オレはすぐに顔を押さえた。
声にならない痛みで震えが止まらず、傷口を慎重につついて、傷の深さを確認。
血がボトボト落ちてきたので、体の芯が冷えてしまった。
「よし。帰ったら、赤飯ね。ふふ」
不知火は、見たこともない満面の笑みで、頬に手を当てた。
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