鬼の嫁

 鐘のような音が響いた。


「あらら」


 田中の驚く声に顔を上げると、オレの頭上には、なぜかフライパンがあった。何かを作っていた最中だったのか、『ジュー、ジュー』と油が跳ねており、刀はフライパンの底で留められている。


 不意に足の甲が熱くなり、刀で刺された肩より足の方を押さえてしまう。


「アッツ!」


 落ちてきたのは、チャーハンだった。

 パラパラとした米粒に混じり、細かく切られた肉やネギが混ざっている。

 和風のタレで仕上げた一品は、香りが良く、食欲をそそられるものだった。


「帰りが遅いから、……浮気してるんだろうなって……思ってたら」


 聞き覚えのある声が隣から聞こえた。

 恐る恐る隣を見上げる。

 オレの横には、ガラスから体の半分を出した状態で、鬼の形相を浮かべる不知火だった。


「アンタ、人の旦那に何手出してんのよ!」


 黒い海老が田中に飛んでいく。

 これを難なくかわし、田中は相変わらず落ち着いた様子で刀を引いた。


 初めて別の世界を行き来する現場を目撃した。

 ガラスはまるで、底の見えない水面のように波紋を広げ、小刻みに震える。恐らく、自宅と繋がっているであろう窓から出てきた不知火は、着物にエプロン姿で現れた。


「どこの馬の骨よ」

「どうも。新しく冥府代官を務めております、田中です」

「あぁ、今はアンタが閻魔をやってるわけ?」


 不知火が一歩進むと、田中の後ろにいる馬頭は震え上がっていた。

 心なしか、絵馬の時より怯えが酷いように見える。

 一方、田中は面倒くさそうにため息を吐いた。


「で? ウチの旦那に何をしたわけ?」

「……肩を刺しただけです。それ以上は、何も」

「嘘吐け!」


 軽く、ふわりとフライパンが投げられる。

 熱したフライパンが飛んできたのだから、当然田中はこれを回避する。

 刀で弾き落とし、刃を返す。

 その直後だった。


 田中の体が、一回転した。

 何が起きたか、一瞬分からなかったが、どうやら不知火が胸倉を掴んで持ち上げたらしかった。


 刀を持つ手を押さえ、もう片方の手で胸倉を掴み、綺麗な一本背負い。

 勢いよく持ち上げられたことで、田中の着物は捲れ上がり、肉付きの良い太ももが露わになる。


 背中を床に叩きつけられると、『ボスっ』と変な音がした。

 大理石が敷かれた床はいくつもの亀裂が走り、ミミズのようなジグザグとした線は、オレの足を通り越し、尻の所にまで達する。


 ピシ、ピシ。


 背中から嫌な音が聞こえた。


「人の旦那に色目使ってんじゃないわよ! 泥棒猫!」


 不知火が叫ぶより早いか。

 オレが背にしていた窓ガラスは、勢いよく弾け飛んだ。

 小さな宝石の粒が、雨のように散乱していく。

 堪らずに、半分目を閉じ、頭や背中に砕けた破片が当たるのを感じた。


「私はね。アンタみたいに、胸の大きい女が嫌いなの!」

「それ私怨じゃね? 私怨混じってね?」

「いちいち、タプタプ揺らして! 嫌味のつもり⁉」


 グッタリとした田中を腕力で持ち上げ、グルグルと回転する。

 例えるなら、陸上競技のハンマー投げだ。

 あれの要領で、向こうに思いっきり投げ飛ばしたのだ。


 田中は商品棚に衝突するが、勢いが死なない。

 そのまま、グルグルと回転して、一つ、二つ、三つと棚を通り越して、宙を転がっていく。


 次に目を付けたのは、馬頭だった。


「はぁ? ていうか、どうしてアンタがここにいんの? グル?」

「いぇあ、その、あの」

「まあ、いいわ。アバラで勘弁してあげる」


 オレは肩を押さえて、立ち上がった。


「ちょ、ちょっと! ストップ!」


 馬頭は戦意喪失している。

 これ以上、追い討ちを掛けたら、さすがに可愛そうだ。

 不知火の腕を掴み、制止するために声を張り上げた。


「そいつは、もうオレがやったよ。つか、さっむ! いってぇ! 傷口にメッチャ染みるんだけど!」


 冷たい風が肩の傷口をイジメてくるのだ。

 チクチクとした痛みが傷口の奥と周りに集中して、変な汗が出てきた。


 オレが叫ぶと、不知火がこっちを向き、真っ先に肩の傷に注目した。

 ギョッとした表情で固まり、眉間に皺が寄っていく。


「……これ、誰がやったの?」


 田中と言いたいが、今は早く帰って、病院に行きたい。

 穴が空いた傷というのは、耐え難いものだった。


「い、いいから。帰ろうぜ」

「良くないわよ! ……まさか、あの牛女が?」


 なるほど。

 不知火とオレの認識は同じようだった。


「許、せない」

「今はいいから! 帰ろうって!」


 歯軋りの音が口から漏れていた。

 血管が額に浮かび上がり、今にも田中って女を殺しそうだ。

 こうやって話している間に、田中が復活しているんじゃないか。

 そんなことを考えて、飛ばされた方を見る。


 不知火の後ろに目を向けたオレは、開いた口が塞がらなかった。

 復活しているどころではない。

 すでに、


「げぇっ⁉」


 水平に振った一太刀は、風を切る音より早い。

 刀身は確かに不知火の首に目掛けて接近し、固まっている最中に刃が触れてしまった。


 ゴン。


 およそ、斬ったとは思えない音が店内に響く。


「いったぁ!」

「……それで済むの? お前、ヤバくない?」


 首筋を押さえて、不知火がしゃがみ込む。

 プルプルと震えて、再び鬼の形相で立ち上がると、ものすごい勢いで掴みかかった。


「こ、ンのおおお!」

「……はぁ。面倒くさい」


 二人が争うせいで、店内はメチャクチャだった。

 棚はドミノ倒し。

 レジ台はひっくり返って、メチャクチャ。

 商品は散乱して、足の踏み場がない。


 オレはというと、遅れて傷口が痛み出し、貧乏揺すりが止まらなかった。

 助けてくれたのはありがたいが、今はそれどころではない。


 酒のコーナーに二人が入った所で、オレは馬頭に声を掛けた。


「馬頭! お前、オレを自宅に送れるか?」

「……たぶん」

「どこでもいい。家の近くに運んでくれ! 痛くて死にそうだ!」


 オレは馬頭を頼り、ガラスのある場所を探した。

 一つだけ言えるのは、一般人にガチの戦闘は向いていない。

 血生臭い戦いは、空想だけで十分だと心から思った瞬間だった。

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