人間の本気
馬頭は、地獄にいる大きな鬼だ。
馬の被り物をしており、真っ黒い肌をしたマッチョ。
ふんどし一丁の巨躯な男で、見た目通り怪力。
真っ向から立ち向かった所で、オレみたいのが勝てるわけがない。
こいつと初めて会ったのは、地獄の入口から少し進んだ場所。
大量の血で浸水した病院の中に、こいつはいた。
その時は逃げるしかできなかったが、今は違う。
オレはスーパーで働いている。
だからこそ、このスーパー内ではオレの方が一枚上手。
嬉々として追いかけてくる馬頭から逃げ、オレが取った策は、こんな感じだった。
「オラぁ! おら! もっといっぱいあるぜぇ⁉」
調味料のコーナーに行き、大量の胡椒をぶちまける事だった。
封を切っては投げての繰り返し。
たまに、ボーナスとして七味や一味唐辛子をぶん投げた。
「げほっ、こほっ! あああああ! 目がいっ、痛ぃぃぃぃ!」
胡椒を選ぶなら、断然粗挽きだ。
粗挽きの方が臭いは強烈。
粉末は大きいので、目に入ると馬頭のように悶え苦しむことになる。
奴は大きな体を丸めて、小刻みに震えていた。
「てんめぇ! あの時はよくもやってくれたなぁ! 忘れてねえぞ、この野郎!」
薄暗い病院で、体長2m越えの大男に追われる恐怖は計り知れない。
恐怖は克服することで、いずれ怒りに変わる。
これは自信を持っていえるが、普段周りにビクついてきた人生を歩んできても、人はある時をきっかけに怯えなくなる。
今のオレが、まさにそうだ。
「やめで! オニいぢゃん、やめでぇ!」
「うるせぇ!」
練りわさびの封を切り、三本ほど手に持って、オレは馬頭に近づいた。
奴はギョロギョロした目に涙を浮かべ、オレを見てくる。
被り物を少しだけ持ち上げると、口の中にチューブを三本突っ込み、一気に絞り出した。
「オラアアアアアアア!」
「おええええええっ! かはっ、うぶ、はぁ、……ハっ、か、ら、……ぇええええええっ!」
男と男の真剣勝負だ。
どちらも腰みの一丁。
邪魔する者はいなかった。
「やめでっでぇ!」
ドンっ。
強い力で押され、オレはでんぐり返しのポーズで床を転がった。
何度も背中を床に打ち付け、冷たい感触を味わう。
けれど、怒りで体が熱くなったオレは、もう止まらない。
調味料コーナーは、オレにとって
武器庫と言っていい。
続いて、手に取ったのはからしだ。
からしの箱は乱暴に破って、五本取り出す。
ありったけのからしを手の平に山盛りにして、オレは馬頭に近づいた。
馬頭は尻餅を突いた状態で後ずさる。
「どうした? まだ終わりじゃねえぞ。隣の棚には、醤油が並んでる。そこには油だってあるぜ? 野菜コーナーには玉ねぎとレモンがある。パイナップルは鈍器だ」
「どうじで、ひどいごと、ずるの?」
「愛だよ」
大嘘だ。
自分を正当化する方便だ。
ここまで来ると、一方的過ぎて逆に可愛そうになってくるが、甘い気持ちを押し殺さなければいけない。
自分でも嫌になるほど、オレはお人好しだ。
そのせいで、嫌な目に遭ったことがたくさんある。
だからこそ、今は自分の弱さと向き合い、奴に引導を渡すのだ。
「馬頭ぅ。オレの愛を受け取れよ。えぇ? こちとら、極寒の中、裸できたんだぜ? つか、お前どっから来たんだよ! いきなり現れやがって!」
叫びながら、オレは馬頭に突進した。
「ひぃっ!」
これは偶然だが、オレのすぐ横に、大きな足が飛んできた。
すれすれで当たらなかったが、足の裏をまともに食らえば、確実に内臓は潰れていただろう。
ゾッとする恐怖を怒りに変えて、オレは馬頭の顔に腕を回す。
もう片方の手で、からしを被り物の下に潜り込ませ、腹の底から叫んだ。
「馬頭ううううう! 男ならよぉ! ビクビク泣くんじゃねええええ! 泣きたいのは、こっちだよおおお!」
口。鼻。目。
あらゆる部位を優しく撫で、指先で揉みしだき、この世のものとは思えないマッサージを施す。
「ぎゃあああああああ!」
馬頭の高い悲鳴が鼓膜を震わせた。
悲鳴は途切れ途切れになり、必死にオレの体を突き飛ばそうと肩を掴むが、オレの方が素早い。
すでに鼻の穴へからしをたっぷり塗り込んだ。
赤子を可愛がるかのように、優しく瞼の上を撫でまわした。
奴はもう、動けないだろう。
「ぶぇっ、ぶぇええっ、へえっぶっ。おえっ」
「後で水を使って洗っとけ。これ以上痛くなりたくないなら、ずっと目を閉じとけ! 分かったな⁉」
馬頭が腕の中で、小さく頷く。
何度も頷く馬頭から離れ、オレは床に座った。
「ハァ、ハァ、……くそ。やっぱ、糖尿はダメだ。すぐ疲れる」
泣きじゃくる馬頭を一瞥し、オレは絵馬が吊るされている方を見た。
ハシゴを取ってこないといけない。
しかし、田中は易々と絵馬を解放しないだろう。
「くそ」
オレは呼吸が乱れた状態で、飲料のコーナーに向かった。
息を切らせて、大きなペットボトルに入った水を二本抱えると、すぐに馬頭の方に戻る。
馬頭は蹲って、嗚咽していた。
オレが頭を掴むと、ビクリと震える。
「顔を上げろ。洗ってやる」
被り物を取ると、馬頭の素顔が露わになった。
毛髪はなく、眉毛がない、つるっぱげの男だ。
オレと同い年くらいか。
三十路くらいなのに、精神年齢が幼いってところだ。
「おら」
水をぶっかけ、手で擦ってやる。
鼻から息を吹くよう指示をすると、馬頭は大人しく従った。
目は多少充血しているが、問題ない。
どうせ死なないのだから、今の痛みを取ってやれば、時期に良くなるだろう。
そして、オレは履いているパンツを脱ぎ、馬頭の顔を拭いた。
「馬頭。仲直りするぞ」
「うぅ……」
「喧嘩した後は、仲直りだ。それとな。お前に頼みがある」
肩に腕を回し、耳元で話した。
「絵馬を解放しろ。お前、デカいから余裕だろ」
「やだ……」
「どうしてだ?」
「イジメられる」
「絵馬にか?」
馬頭が頷いた。
そういえば、絵馬が話していたか。
こいつをイジメた過去があると。
イジメられた側からすれば、許せないだろうし、警戒する。
当たり前のことだ。
「安心しろ」
馬頭の充血した目を覗き込み、オレは力強く言った。
「今度はオレがイジメる。お前には手出しさせねえ。だからよ。あいつを解放して、あいつと同じにはなるな」
オレだってイジメられた経験はある。
死ぬほど憎んだけど、大人になると、いつしか「あいつと同じにはなりたくない」という気持ちが膨れ上がった。
きっと、体が大きくなるにつれて、心が成長したおかげだ。
「ほら。立て」
馬頭の腕を引くと、躊躇ってはいたが、大人しく立ち上がった。
冷静に考えると、馬頭はどこかで性格をこじらせただけで、根は良い奴なのかもしれない。
「今日で、お前は大人になるんだ。な?」
「……うん」
大きな尻を叩き、オレは馬頭と共に絵馬の所へ戻った。
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