田中
軽蔑の眼差しを向けてくる女は言った。
「どうします? 帰るのなら、このまま帰してあげてもいいですけど」
「その前に聞かせてくれ。アンタ、ちびっ子って言ったよな。絵馬の事を知ってるのか?」
「はい。ツバキ様の妹ですから」
ツバキ。
懐かしい名前を聞いたことで、目の前の女がどこからきたのか、確信が持てた。
ツバキというのは、極楽浄土の長だ。
おっとりしていて、優しくて、誤解を恐れずに言うなら、女性の鑑。
女神でもいい。
とにかく綺麗な人で、話を聞いてくれる人だ。
その名前が出てくるって事は、目の前の女は極楽浄土から来たってことだ。
「一応、聞かせてくれ。アンタの名前は?」
「田中です」
「そうか。田中。うん。オレは佐伯――……田中?」
「田中です」
田中と名乗った女は、ビールのタブを開けた。
悩ましげな表情で、飲み口から底を覗き、くびくびと飲み始める。
まるで、疲れきったOLのようであった。
「なんですか?」
「あ、いや……」
あの世では、古風な名前ばかりだった。
馴染みのない名前ばかりだったが、ここにきて現代風な「田中」という名前に戸惑ってしまう。
「……っはぁ……美味し……」
頬に手を当て、飲み干したビール缶をその場に落とす。
ガラガラと、小うるさい音が鳴り、見れば田中の足元には、すでに飲み干したであろうビール缶が山ほど置かれていた。
10缶?
20缶?
かなりの数だ。
「た、田中さん。絵馬は、……どこに?」
「ちびっ子は、そこですよ」
「ほあ?」
感を握る手で、指だけを立てる田中。
指した方は、オレの斜め後ろにあるレジの台。
振り向いて周りを見るが、そこに絵馬の姿はなかった。
「う、え」
言われて目線を持ち上げる。
すると、オレの目に飛び込んできたのは、プラプラと揺れる小さな影だった。
「……絵馬?」
外からでも見える位置にいた。
初め、オレはプラプラと揺れる物が、照明か何かだったと思っていた。
高い天井からぶら下がったのは、コードをグチャグチャにまとめたもので、業者が点検の途中で消えたのかな、と思っていた。
違う。
絵馬は電気コードで両足を縛られ、宙づりになっていた。
服は所々破け、全身血塗れ。
眠るようにして目を閉じ、左右に揺れている。
「他の者と待ち合わせしていますので。帰るなら、早めにした方がよろしいかと」
ビールを飲みながら、まるで月でも見るかのように、グッタリした絵馬を見上げる。
「殺したのか?」
「まさか。我々は死にませんよ。放っておけば、目を覚まします。……ご覧の通り、先ほどまでは真っ二つでしたので」
一気に緊張と恐怖、別の感情が込み上げ、オレは息が荒くなっていく。
――こいつ、マジでヤバいぞ。
ビールを飲んでいたのは、一仕事終えたからか。
オレが気を失っている間に、絵馬はすでに連れ去られたんだ。
ふと、オレはある事に気づいた。
『緊急停車します』
車内にアナウンスが流れた時、車両に乗り込んできたのは鉄輪という男だけだった。
でも、おかしいのだ。
車両に乗ってきてるんだったら、そもそも緊急停車する必要がない。
進行の妨げにならないからだ。
ということは、電車が止まった時、別の奴が線路にいたはずだ。
あるいは、踏み切りの近くに。
緊急停止のボタンを押した、なんて考えれば辻褄が合う。
――絵馬は、悪戯で電車を動かしたんじゃない。
――こいつを殺そうとしたんだ。
「あらら」
田中を無視し、オレはレジに近寄った。
今すぐに絵馬を下ろさないと。
「困りますよ。せっかく眠ってくれたのに。解いたら、また逃げられてしまう」
「うるせぇ!」
年甲斐もなく、オレは腹の底から怒鳴った。
「この野郎。牛みたいな乳しやがってよぉ。ドスケベな女だと思ってりゃ、とんでもねえサイコ女じゃねえか!」
「誤解しないでください。私は八馬様の命令で、彼女を連れて行くために斬っただけです。こうなった原因は、全て彼女にあります」
くびくび飲んで、田中が嘆息した。
「ああ。間違いない。全部悪いのはこいつだ。その点に関しちゃ、何も言うことがない。それでもな。お前、このバカを一方的に斬っていい理由なんかないぜ! こいつはオツムが足りてねえ、100歳越えのガキなんだよ! テメェも大人なら、一発ぶん殴ってチャラにしろよ! それから、何べんでも言い聞かせろよ! 一方的に処刑紛いのことしてんじゃねえ!」
善か悪か、といった二択がいかにくだらないか。
理路整然とすれば、何でも許されると思ってるのだろうか。
だとしたら、オレはバカでいい。
間違っていてもいい。
人として間違った事は、絶対にやりたくない。
これはダメだ、と自分の心が叫んだら、もう理屈はいらない。
レジ台に上がり、プラプラと揺れる絵馬に手を伸ばした。
頭に触れる事はできたが、高さが足りない。
ハシゴか何かあれば、足のコードを解くことができそうだが。
絵馬の顔を濡らす血は、真下の床に落ちて、水溜りを作っていた。
通常なら、失血死している量だ。
「それなら――」
田中が赤い舌で、唇を舐め回した。
「――止める必要はない、と」
「なんだと?」
突然、オレの視界が薄暗くなった。
明かりが点滅したか。
違う。
大きな影が、オレの影を隠したのだ。
「――っ」
すぐに後ろを振り返ると、レジ台の前には、いつの日か見た大きな男が立っていた。馬の被り物をしていて、体長が2mを超えた筋肉隆々の男。
馬頭だ。
「アは、お兄ちゃん」
巨体による突進を食らい、勢いよく体を押された。
馬頭はオレの体を抱え、商品棚だろうが、レジ前のお菓子コーナーだろうが、全部を蹴散らして突っ込んでくる。
背中には、硬い物から柔らかい物まで、色々なものがぶつかり、悲鳴を上げることができなかった。
ようやく勢いが死んだ頃、オレは床を転がった。
体の前面がメチャクチャ痛いが、突っ伏していられない。
「馬頭ぅ、この野郎おおおおおお!」
「アハハは! おにいぢゃん! おにいぢゃん!」
オレは過去最高にブチギレた。
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