無の世界
子羊みたいにプルプル震えて脱出したオレは、電車の上で辺りを見渡した。
「……どう……なってんだぁ?」
オレが今いる場所は、工場地帯だ。
川があって、そこから真横にずっと工場が続いている土地。
工場の端っこには、畦道があり、その向こう側は田んぼ。
確かに、電車は工場地帯の前を通る。
けれど、線路は現在地から1キロ程度離れた場所にある。
なのに、オレが乗っていた電車は、工場と工場の間にある、T字路の角にぶち当たっていた。
工場の敷地を囲うフェンスはメチャクチャ。
敷地内に侵入しているというのに、周囲は静か。
無人なのだ。
野次馬なんていないし、工場の前にある道路は車が一台も通っていない。
「……おかしい。……これ、おかしいぞ!」
独り言で叫ぶのは、動揺と恐怖を抑えるためだ。
「さっきまで、おっさんと取っ組み合ってたのが嘘みたいだ」
電車の上を歩き、開きっぱなしの出入り口から下を覗いたり、とにかく人影を探した。
しかし、誰もいないのだ。
放り出された人がいたとして、血痕すらない。
電車事故では体が千切れるというけど、辺りにはそれらしきものがない。
冬だから、路面は真っ白い。
なので、すぐに分かるはずなのだ。
部分的に雪が赤く染まっていたり、人が落ちたなら跡が残る。
「ハァ、……ハァ、……今日は冷えるな」
パンツ一丁なのだから、当たり前である。
離れた場所では、外灯の明かりが見えた。
等間隔に並ぶ外灯の明かりは、深々と降る雪を橙色に照らしていた。
明かりを覆いつくすほど降りしきる粉雪は、目につく全てを白く染めていく。
この場合、橙色の明かりだけが世界の輪郭を作っているかのように錯覚させ、オレは何だか、身近な場所でありながら、幻想的な別の世界に放り込まれたような気がした。
眼前に落ちてくる雪を白く濁った吐息が吹き返す。
息を切らせながら歩き、まずは近場のスーパーに向かうことにした。
パンツ一丁の男が入ってきたら、変質者呼ばわりされて通報されることだろう。
とはいえ、大事故の後なのだから、この際オレが脱いでいることは大目に見てくれるのではないか、と人々の寛大な心に期待している。
T字路を真っ直ぐ歩くと、川がある。
川の傍には、携帯ショップ。
駐車場を挟んで向こうには、呉服店。
ラーメン店。
これらの前には国道があり、道路を渡ると、牛丼屋がある。
広い駐車場の中には、百均ショップ。
ドラッグストア。
これの前を突っ切ると、細い道路がある。
細い道路の向こうに、大手系列のスーパーがある。
道を歩いていると、やはり不可思議な事に気づいてしまう。
道路には、足首が埋まるほどの雪が積もっていた。
これはあり得ない事だった。
なぜなら、定期的に除雪車が走る。
氷解剤をばらまくし、車の行き来が困難になるのを役所は放っておかない。
その雪の中を走る車があれば、タイヤの跡があるはずだ。
真っ白なのである。
「あああああ! さびいいいいい!」
オレの声だけが、世界にこだました。
「明かり点いてんじゃん! 誰もいないのかよ! おーい!」
寒さで凍えるオレの脳裏には、『異世界転生』という小説のジャンルが浮かんだ。
投稿している小説サイトでは、かなりの人気を誇っている。
生憎、オレは興味がないので、そういったものを書くつもりはない。
ただ、あまりにも同じ韻を踏む作品が多いので、大体どういうものかはオレみたいな奴でも知っている。
死んだら、異世界にレッツゴーだ。
そこでハーレムを築いて、酒池肉林の限りを尽くす。
違うか?
違うな。
色々な展開があるよな。
何が言いたいのかというと、オレはまさしく異世界に来たんじゃないかと、薄々感づいてるわけだ。
牛丼屋の中は、明かりが点いている。
なのに、客はおろか、店員の姿が見えない。
周りだって同じだ。
明かりが点いているのに、誰もいない。
「絵馬! ぶっ飛ばすから出て来いよ!」
声が反響した。
「出てこないと、八馬さんにチクるぞ! いいのかよ!」
本当に誰もいない。
無人の世界を歩行したオレは、駐車場を通り、スーパーの前に移動する。端から端までガラス張りなので、店内が丸見えだ。
あちこちに目を走らせるが、案の定、誰もいない。
自動ドアが開かないのではないか、と考えたが、ドアの前に立つと、ちゃんと開いてくれた。
雪風を凌げるなら、もう何でもいい。
ドアを潜り、オレは店内に侵入した。
その矢先、思わず足を止めた。
コツ……コツ……コツ……。
足音が聞こえるのだ。
ヒールを履いているのか。
硬い物が床を叩く、小気味の良い音が聞こえる。
絵馬は裸足だから、ヒールなんて持っていない。
音を頼りに、オレは人影を探した。
何分、変な現象が起きているから、声は出さず、静かに移動する。
――誰だ?
店の入り口から、すぐ斜め向かい。
酒のコーナーだ。
棚に隠れながら、首を伸ばして、そっと陰を覗いた。
「あらら。おチビちゃん以外に巻き込んでしまったようで」
向こうもオレに気づいていたらしく、オレが覗く前からこっちに顔を向けていた。
「……え……っと」
酒のコーナーにいたのは、とんでもなく色っぽい女性だった。
肌の露出が激しいわけではない。
紫を基調とした着物を着ており、襟足の部分で結んだ長い髪を肩口に垂らした、色白の女。
目の下にある、泣きボクロが印象的だった。
何より、着物の前が少しだけ開かれており、そこには大きな谷間が見えた。
着物姿だというのに、足はブーツ。
そして、一発で警戒心を強めたのは、腰に添えている打ち刀。
女はビール缶を手にして言った。
「……殺した方がいいのかしら」
「……でっけぇ」
欲望と殺意が渦巻いた瞬間だった。
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