極寒の闇

 オレの人生で、オレより強い奴と戦う局面があるだなんて、想像すらしなかった。というか、したくなかった。


「ぐおえああああ!」


 背中には、ガラスの冷たい感触。

 首を片手で掴まれ、そのまま天井にまで持っていかれる。

 鉄輪の手首を両手で掴み、顎を引くことで、かろうじて空気を取り込むことができた。


「おじさん! がんばって! プリクラみたいに戦ってよ!」

「うおおおおおお! 無理だアアアアア!」


 絵馬の脳内では、きらきらとした魔法戦士が、ふりふりの衣装を着て華々しい活躍をしている映像が流れているのだろう。


 現実はおっさんが強制的に衣服をログアウトされ、腹パンされているだけの汚い絵面である。


「こンまま首ぃ、へし折ったらぁ!」


 マズい。

 非常にマズい。


 視界が白く濁り、本当に死にかけていた。

 タイムリミットは残り少ないだろう。

 頭が働く今の内に、起死回生のために何が必要か考える。


 腕力では勝ち目がない。

 現在地は電車の中。

 男のみが全裸。(オレはパンツだけ)


「くっ、え、絵馬! ガラス、割れぇ!」


 電車のガラスは、普通のガラスと違う。

 強化ガラスだ。

 後で知ることになるが、普通のガラスの3倍は硬いらしい。


 人間の腕力で割る事は、まず不可能。

 道具があれば別だ。

 その点、絵馬は人間より腕力があるのだ。


「え、で、でも、どうやって……」

「早く!」

「うーん、と。……あ! 扉開けてもらうのは?」

「それぇ!」


 絵馬の考えた代案に賛同する。

 小生意気なちびっ子は、トテトテと鉄輪の背後を回り、車掌さんのいる仕切りの向こうに消えていく。


 ガタ、ガタン。


「あれ⁉ 勝手に動いてる!」


 車掌さんの驚く声が後ろから聞こえた。

 その直後、空気の抜ける音と共に車両の


「なんじゃい⁉ おお⁉」


 電車が揺れたことで、首から手が離れる。

 激しく咳き込んだオレは、何が起きているのか理解するのに時間が掛かった。


「ぎゃあああああ! 凍死する! 寒い、寒い、寒い!」

「みんな! 前の車両に逃げるんだ!」

「何で走ってんのよ!」


 乗客が全員前の車両に押し掛けていく。

 ただ、ここは田舎の電車なだけあって、都会の人たちよりは落ち着いているし、人数がそもそも少ない。


 揺れる電車の中、みんなつり革を使ってバランスを取り、前に歩き出した。


『あれぇ⁉ 止まらない! やっべ!』


 車掌さんのアナウンスが車両内に響く。

 絵馬はというと、仕切りの向こう側からオレ達を覗いており、「にこぉ」とした笑みを浮かべていた。


 こいつは、オレが苦しめば苦しむほど、天使の笑顔を浮かべてくる。


「おっさん! オレ達も前に避難するぞ!」

「じゃかしぃわぃ! 指示するんじゃねえ!」


 鉄輪の両肩を掴み、前後に揺さぶる。


「馬鹿野郎! お前は知らねえ! 今、外の気温は-10℃。風に当たってるから、体感温度はもっと冷えてるんだよ!」

「ど、どういうことや」

「……オレ達は……死ぬ!」


 本当は窓を開けて、冷風で離してくれないかな、と浅はかな考えをしただけだ。あるいは、扉を開けたら、こいつだけを外に放り出せればと考えた。


 しかし、絵馬という性悪のちびっ子が余計な事をしたせいで、電車が走り始めている。

 扉は全開放。

 あり得ない事態に陥ってる今、本気で死に直面しているのだ。


「ひええあああああ! わ、脇が! 冷えるううう!」


 つり革を掴む時、両腕はホールドアップする。

 その際、冷風が両脇を冷やしてくるのだ。

 完全に無防備な状態となったオレ達は、「ほふっ、ほふっ」と妙な呼吸をして、震えながら歩いていく。


 ギギ……っ。


 事態はまだまだ悪化する。

 電車が緩やかなカーブに入った。


「うおおおおお⁉」


 速度が上がっているため、体が真横に引っ張られた。

 つり革とオレのパンツがギチギチと音を立てる。


「あかん! もう、あかん! 漏れそうや!」


 鉄輪は、つり革から手を離し、座席の端にあるポールに掴まった。

 股間を押さえてガタガタと震えだし、股を擦り合わせている。

 急激に冷えたことで、膀胱ぼうこうが刺激されたのだ。


「おっさん! 立ち止まるんじゃねえ!」

「もう、アンタだけで行ってくれや! もう、無理ぃ!」

「諦めんじゃねえよ!」


 オレは鉄輪の腕を取り、無理やりに立たせる。


「漏れるって!」

「良いこと考えた。おっさん。今、扉は開いている。目の前の出入り口から、放水するんだ!」

「で、できんって!」

「やるんだよ! アンタ、男だろ! 腕ならオレが持つ。アンタは思う存分に放水作業へ取り掛かるんだ!」


 ガタガタと震えながら、鉄輪は空いた手でお稲荷さんを持つ。


「ふー……っ! ふー……っ! お、おぉあ……っ」


 鉄輪が顔面をブルブル震わせ、放水活動に取り掛かった。

 その直後だった。


 ギィ……っ!


 またしても、電車が揺れた。

 急なカーブに入ったのだろう。

 一段と大きな揺れを起こし、オレは冷え切ったポールを両手で必死に掴む。


「ハッ⁉ マズい!」


 開放された扉の向こうを見ると、鉄輪は電車の外にいた。

 何もない場所で、うつ伏せの体勢になり、放水をしながら夜の闇に消えていく。


「ほぉぁ?」

「おっさん!」


 姿が見えたのは一瞬だった。

 鉄輪の無様な姿は流れるように闇へ溶けていき、叫んだ直後には何も見えなくなる。


「ハァ、ハァ、やべぇ。これ、やべえって!」


 後ろを向き、仕切りの向こうにいる絵馬に声を掛けた。


「もういいって! 止めろ!」


 絵馬は小さな八重歯を覗かせ、にこにこと笑う。

 オレは決めた。

 家に帰ったら、あいつを絶対にイジメる。

 泣くまで許さない。


 力を振り絞って体を前に持っていき、まずは座席に全身ダイブする。

 これで冷えた体を温めることができる。

 寝返りを何度も打ち、しっかりと体を温めた。


 そして、上体を起こして、何気なく窓の外を見る。


 窓の外には、――あった。


「あ……」


 察しのいい方は、すぐに気づくだろう。

 電車は、脱線したのである。

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