襲来
仕事帰りの電車に揺られ、オレはため息を吐く。
何だか、どっと疲れてきた。
「んね、あいつら破局するよ。ひひ。どっちも浮気してる」
電車の中では、落ち着きのない子供ばりに絵馬がうろうろしている。
所詮、田舎の電車なので、人影はまあまあだ。
向かいの席では、豆粒みたいな顔の輪郭をした女と顔中脂肪塗れの男がいた。
女の方は小馬鹿にしながら、男の腹を弄っている。
男は馬鹿にしながら、女の腹を弄ってる。
何が面白いのか、絵馬はニヤニヤと笑って二人を眺めている。
こいつの姿は周りに見えていないので、いくらでも悪態を吐き放題だった。
――疲れた。
頭が回らない。
家に帰って、布団に寝転がりたい。
最近、ミツバと不知火はギスギスしていて怖いから、余計な気疲れがする。
ミツバに至っては、「私の事好きなんだよね?」なんて、らしくない事を言うので、オレは即「愛してる」と言った。
これだけ上位互換の言葉を吐き出しているのに、何やら納得がいっていない様子。
つくづく女という生き物は、オレみたいな寂しい人生を送ってきた奴には分からなかった。
座席にもたれ掛かって、目をカップルの上の方に向ける。
窓越しに見えるのは、暗闇。
暗闇の中に白い残像がいくつも見えていた。
風が吹けば、電車が揺れる。
揺りかごのような心地よさが、この時のオレにとって、睡魔を誘発させるのに十分だった。
「あ」
絵馬の声が聞こえた。
構わずに、オレは絵馬の頭に肘を乗せて、枕代わりにする。
「あ、あ、やば。おじさん。ヤバいよ」
答えない。
周りから見れば、オレは独り言を呟く変な奴だと思われるからだ。
絵馬が膝を叩いてくるが、無視し続ける。
瞼を閉じてから、しばらくして、今度は絵馬以外の声も聞こえてきた。
「……なんだろ。停電?」
重い瞼を持ち上げた。
チカ、チカ、と車内の照明が点滅していた。
電車は明かりが点いているのが当たり前。
なので、暗闇に包まれた車内は、驚くほどに何も見えなかった。
明かりが消える度に、窓の外の景色が一瞬だけ見えた。
赤みを帯びた夜空だ。
『緊急停車します。ご乗車のお客様には大変ご迷惑をお掛けします』
車掌さんのロボットみたいな声が車内に流れた。
何だ。
珍しいな。
オレは生まれてこの方、現在乗ってる電車で緊急停車なんてアナウンス聞いたことがない。都会とは違って、人身事故だって全くないのだ。
「おじさん。敵だよ!」
「はぁ?」
周りが騒がしいので、どさくさに紛れて声を発した。
「ほら。前からくる」
電車の列は3つ。
オレが乗ってるのは、後列。
前には、2つの車両が繋がっている。
絵馬に言われて、座席から身を乗り出し、首を伸ばした。
前の車両では、何やら悲鳴が上がっていた。
周りはオレと同様、首を伸ばして不安げな目を前の車両に向けている。
こんな事は誰も経験したことがないので、当然だ。
テロでも起きたんじゃないか。
冗談抜きで、そんなことを考えた。
一番前の車両が、真っ暗になった。
悲鳴は途中で消え、続けて2つ目の車両も真っ暗になった。
「ねえ。警察に電話した方がいいんじゃない?」
「いやぁ、でもぉ、大丈夫じゃね? すぐ直るんじゃね?」
前の方ではカップルが相談し合っている。
「ふぅ、ふぅ。早く出発しろよ。こっちは高い金払って、デリ呼んでんだ。ふぅぅぅ……」
隣の席では、小太りのサラリーマンがイラ立っていた。
割合的には、オレの乗っている車両はおっさんか、デブしかいない。
根暗か、スケベのどちらかだ。
そいつらは口々に似たようなことを言っており、イライラしている。
だが、2つ目の車両で悲鳴が上がると、途端に息を詰まらせた。
「あんの、クソでか女ァ! 変なの送ってきた!」
絵馬が小さな八重歯を剥き出しにキレていた。
絵馬は「殺す」とかキレながら、しっかりとオレの腕に自分の腕を絡ませてくる。
腕だけじゃない。
耳鳴りのする静けさが訪れると、今度は全身で横から抱き着いてきた。
顔だけ見れば、怒り心頭と言わんばかりに目を剥いているが、体は正直だった。
全身が小刻みに震え、「ぶっ殺す。殺す。ぷふぅ。殺す」とオレの脇の下に頭を潜り込ませてくる。
そして、今度はオレの乗っている車両が真っ暗になった。
「あああああああ!」
「ちょ、さわんなし!」
「触ってねえよ、ブス!」
「はぁ? 表出ろテメェ!」
「お前だけ出ろよ!」
もう誰の喧嘩か分からない。
オレは黙って、絵馬の頭をグリグリと揺らして遊んだ。
余裕ぶってるわけじゃないけど、超常現象の類には、人間の常識が通じない。
静観すること、しばらくして、周りの声がピタリと止む。
見れば、暗闇の中には青白い顔が浮かんでいた。
悲鳴の一つでも上がりそうだが、顔は一つだけではなく、そこらかしこに浮かんでいる。
その内の一つがオレの前にきた。
ニヤケ顔の男だ。
これが、まあ、にちゃぁと笑った憎たらしい顔だった。
仕事の疲れもあり、本気でイラ立ったオレは、ゆっくりと手を伸ばす。
ハエを叩くときと同じ、逃げられないように、ゆっくりと。
ぷちゅ。
二本の指で相手の目を触ると、闇に浮かぶ顔面がビクリと震えた。
「目が――」
突然、明かりが点いた。
眩しさに目を細めると、車両の出口の前では一人の男が顔を押さえて苦しんでいた。
「見つ、けたぞぉ、……くっ。目が、い、った」
奴は黒い着物を着た、やたらと大きな男だった。
禿げ頭で、ボディビルダーかと思うくらいに膨れ上がった全身。
着物越しに分かるほど、筋骨隆々の男は鼻息を荒くして、オレに振り向く。
「な、なんだ、あいつ」
「誰? え、なに?」
周りの乗客にも見えているらしい。
これも混乱の影響だろうか。
普段なら見えないはずの者が見えている。
あの世と同じで、狂い始めている。
「冥府元代官、絵馬ぁ。お前の首を貰いにきたぜぇ」
「うっせ、ハゲ! 死ね!」
無理やり、座席と背中の間に身体を滑り込ませ、絵馬が威嚇した。
「よくも、男って理由でよぉ。懲戒免職にしてくれたよなぁ⁉」
「男は生まれた時点で罪! これ、常識!」
「うるせぇ! 自分勝手な理屈並べて、意味の分からねえ常識作ってんじゃねえ!」
ハッキリ言おう。
10:0で、絵馬が完全に悪い。
絶対に悪い。
許されざる愚か者と言っていい。
過去の事を思い出せば、オレだって怒りが湧いてくる。
「あの世に連れ帰ってよぉ。オスの逞しさ。教えてやるぜぇ」
「バーカ! ハゲ! くそハゲ!」
「お前、この状況で、そのメンタルヤバいな。そこだけ感心するわ」
絵馬は犬歯を剥き出しにして、オレを前に押し出してくる。
席の前に立ったオレは、必然的に奴と対峙することになる。
「……ほう。貴様が、あの」
「あの?」
「鬼をお稲荷さんで分からせ、幼女にお稲荷さんを分からせる男、……か」
「それ犯罪者な。ただの犯罪だぜ?」
不名誉な噂で知っているみたいだった。
「わしは
「佐伯リョウ……」
鉄輪と名乗った男は、妙な方便だった。
色々なものが混ざり合った、ぐちゃぐちゃの方便だ。
言ってしまえば、あの世の者であるから、各地域で使われている方便の壁がない、ということなのか。
まあ、ドスが利いてるから、その筋の人間にしか見えないのだが。
「八馬の姉御から聞いてるぜぇ。おどれぇ。わしらに楯突こうって腹なんじゃろ?」
「楯突くっていうか、断っ――」
「四の五の言うのはなしじゃ」
鉄輪は着物の帯をきつく締め、拳を構える。
「男と男。出会えば、やる事は一つ!」
――仕事で、疲れてんだけど。
オレの意思を無視して、絵馬は後ろで元気よく吠えた。
「おじさん。変身だよ」
「え?」
「変身! 言って! おじさんの言葉に反応するようになってるから! そういう呪術書いたから!」
やっぱ、呪い系じゃねえか。
鉄輪は拳を構えて、じりじりと近づいてくる。
やるつもりなのだろう。
腐っても元閻魔の呪いなのだから、きっとすごいご利益があるはず。
そこだけは信用している。
どのみち、相手は聞く耳持たないだろうし、オレはため息一つ吐いて、口を開いた。――その矢先、絵馬が付け足して言った。
「拳を前に突き出すんだよ! それで、変身!」
言われた通り、オレは貧弱な拳を前に突き出し、自棄になって叫んだ。
「――変身!」
その瞬間、周囲は眩い光に包まれた。
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