我が日常は、誰がために
これぞ、絵馬
「ふんふ~ん」
八馬さん訪問の翌日。
オレの部屋では、絵馬が鼻歌を歌いながら、何か作業をしていた。
一着しかないボロボロのスラックスに、筆でサラサラと文字を書いているようだが、何を書いているかまでは分からない。
見れば、股間の辺りに筆を走らせているではないか。
布団の上には、小皿が置かれている。
中には、墨がたっぷりと入っていた。
「それ、何やってんだ?」
「リョウの
「一張羅?」
「あのでくの坊が何かしてくると思うから。戦う準備をしているの」
「……へ、……へえ」
おっちゃん、三十路よ?
お前、三十路のおっさんに戦わせようってか?
「墨こぼすなよ」
「墨じゃないよ!」
「じゃあ、なんだよ」
「……私の血」
「きったねえ!」
小説を書いている後ろで、「お”っ!」とか、変な声出してると思ったら、こいつ自分の血を絞ってやがった。
まさかと思い、布団を捲る。
布団のシーツには、赤い液体がびっちゃりと付着していた。
「なになになに? 何で血絞った⁉」
「だから、一張羅だってば!」
「意味分かんねえよ。どうして、そうなったんだよ! 理由を説明してみろよ、オラぁ!」
頬をぐにっと摘まむと、伸びた顔のまま絵馬が説明する。
「ふぐっ。て、テレビで、魔法少女が、戦ってたから」
「……魔法……少女」
「プリクラってアニメ」
女児向けアニメである。
3歳から7歳の子供に大人気の長寿番組だ。
オレですら名前を知っている。
噂では、30歳の大きなお友達まで見ているとか。
「え、じゃあ、お前が戦うの?」
絵馬はオレの手から逃れ、首を横に振る。
「おじさんが戦うの」
「え、意味分かんねえ。魔法少女のアニメ見て、戦うって結論にいって、オレが戦う準備してんの? 普通、そういうのに影響されたら、お前が戦う決心するものじゃね?」
「やだ」
一蹴してくるので、イラっときてしまった。
「寒いし、痛いし、動きたくない。私は応援するから、おじさんが魔法少女になって戦ってよ」
「オレ、八馬さんに言うよ? いいの?」
「……やめ……てよ」
二の腕を抱き、絵馬は本気で怯えた。
だいたい、八馬さんが手を叩いた時から、妙な感じがするのだ。
テレビを点ければ、ニュースでは物価高騰だの、治安の悪化だの、悪いニュースがやたらと続いている。
思えば、オレが死後の世界から息を吹き返した時から、急に加速した気がする。変な事が立て続けに起こり、意味の分からない事ばかりが表に出てきているのだ。
そして、昨日の旅館での一件。
あれも聞けば絵馬のせいだという。
挙句に、電車の運行状況が悪く、原因不明のトラブルが頻発しているという。近くのスーパーでは、店内で露出狂が現れたとか。
とにかく、目につくもの全てが変わっていた。
「ま、魔法少女って言うのは、言葉の綾だよ。おじさん、男だもん。だから、男向けの一張羅にしてるの。おじさんのいつもの状態と変わらないから、きっと気に入ってくれる」
「……まあ、変なフリフリの服とかじゃなければ、……まあ」
「大丈夫。魔法少女の服じゃないから」
なんだろう。
絵馬が観そうなテレビで、男向け。
となれば、バッタ仮面だろうか?
さすがに、この歳でピッチリスーツに仮面は付けたくない。
「つうか、お前がいると、何でもアリだな。何でも起きるし、何でもやっちゃうし。オレの日常ズタズタだよ」
絵馬なりに、八馬さんを警戒しているということだろう。
何かしでかしてくるかもしれないので、お守り代わりに服へ呪文か何かを書いている。――と言った所か。
「もういいけどさ。後でシーツ洗うから。手伝えよ」
「……ふふ……やだ」
筆を取り上げ、こぼさないように皿へ乗せる。
「っだらぁ!」
絵馬の首に腕を回し、チョークスリーパーを決めた。
こいつに対して、今さら良心の呵責なんて湧かない。
この生意気なところというか、図々しいというか、いちいち神経を逆撫でしてくる言動が、オレをイラつかせてくる。
「ぐぎ、ぎぎぎ、……ぎひぃっ!」
「お前なぁ! 今日、仕事休みになったんだぞ!」
「休めていいじゃん!」
「良くねえよ! 給料下がるんだよ!」
こちとら、貧困生活だ。
給料が少しでも下がったら、本気で生活に支障が出る。
「み、みちゅばに、んぐぎいい! 金借りろ!」
「できるわけねえだろ!」
「くはっ! んん~~~~~~っ!」
ジタバタと暴れた絵馬の肘鉄が、オレの急所に入る。
「うっ」
玉に衝撃が走ったオレは、その場に崩れ落ちた。
「はぁ、ハァ、……ああ言えば、こう言う! 何なの⁉」
「手伝ってくれって言ってんの!」
「私じゃ、力になれないよ! 何もできないもん!」
「洗ったら干すのを手伝ってくれって! たったこれだけの事だろうが! 拒否んなよ!」
油断も隙も無い。
反省の色もない。
これが、絵馬である。
結局、絵馬はズボンがびちゃびちゃになるまで、自分の血を絞った液体で呪文を書き続けた。
お金が足りなさそうなので、オレは銀行から借りる選択肢を取るのであった。
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