異変
住職はジャンバーだけを着て、牛尾はズボンだけを履く。
オレはシャツだけを着て、旅館の入口に戻った。
入口に戻ると、ゴリ松達はカウンターの中にいた。
ある一点を見つめ、神妙な顔つきになっている。
「おえぇっ、がはっ、ぐあっ」
カウンターを背に、仰け反っている女幽霊の姿がある。
そいつには見覚えがあった。
オレがカウンターの裏で待機している時、やたらと絡んできた女の幽霊である。
胸には穴が空いており、血塗れのいかにもな幽霊だ。
奴は何やら、首を絞められているようで、苦しさのあまり舌を出して、両足をバタつかせていた。
何事か、と女幽霊の首元から、首を絞めている手を目で辿った。
「み、ミツバ」
首を絞めていたのは、ミツバだった。
幽体の姿でいるということは、現在のミツバは家で寝ているということだ。
片手で相手をギリギリ絞めつけ、顔だけをこちらに向ける。
オレ達の姿を見て、まず真っ先に呆れた顔になった。
「ちょっと。今、-9℃になってるよ」
「どうりで寒いわけだ」
「極寒で全裸なんて正気の沙汰じゃないわよ」
ミツバの言う通り、オレ達は手足の感覚がない。
せめて、股間に支障が出ないよう手の平で包み込み、熱を与えているのが現状だ。
「服、こいつが隠してたみたいよ」
顎で足元を差す。
見れば、ミツバの足元には大量の衣服が丸めて置かれている。
「わだぢ、ねごを、ま”も”ろ”う”ど」
「はいはい。言い訳はいいから。成仏なさい」
ミツバの親指がメキメキと細い首筋に減り込んでいく。
さすがに相手が悪い。
オレだって、こんな物理的な幽霊が、初めて目の前に現れた時は、ある意味死ぬほどビビったのだ。
普通に怖い。
「ま、待った。服を返してもらえば、それでいいって」
「ええ。幽霊はその辺にいますし。いつものことです」
人々が怯える幽霊は、オレ達にとって通行人と何も変わらない。
いるのが当たり前の日常を送ると、動じなくなってしまう。
慌ててミツバの手を掴むと、筋肉量が以前より格段に増しており、手首には太い筋が浮かび上がっていた。
「つ、っよ! やっべ! これ、死ぬって!」
「いや、もう死んでるんじゃ……」
「ヴぶあ”あ”あ”あ”!」
幽霊は断末魔の悲鳴を上げた。
絞り出された悲鳴は首を絞める力が増す度に断絶して、途切れ途切れに空間に響いた。
「ていうか、不知火はどうした⁉」
すると、ミツバがピタリと止まった。
力を緩めた隙に、女の幽霊は力なく崩れ落ちて、激しく咳き込んだ。
「来ないわよ」
「なんで?」
ミツバは言いにくそうに、腕を組む。
じれったくなったオレはミツバの前に回り込み、「なんだよ」と返事を急かした。
「説明が難しいんだけど。……大きな、女の人がきて」
「はぁ?」
「絵馬ちゃんが怯えて、不知火さんは動けなくなったの」
オレが話している間、ゴリ松達は自分たちの衣服をせっせと着込む。
温かい生地に全身を包み込まれた直後、「ほぉぁ」と快楽に狂ったかのように、気色悪い声が上がった。
入口の隙間から入り込んできた冷風が股間を撫でると、オレも奥歯がガタガタと震えたので、一旦服を着る事にする。
せっかく剥いできたジャンバーは、その辺に捨てた。
身の丈に合った温かい衣服。
冷え切った体が保温素材のジャンバーに包まれた直後、不思議な感覚が全身を駆け巡った。
全身が、何だかピリピリと痺れているのだ。
服越しに肌を撫でるだけで、ぞわぞわとする。
加えて、全身のあちこちが痒い。
「うおあ! 痒っ!」
「冷え切ったところから、いきなり温かい物で覆ったからだろうな」
「あああああああ! 股間が痒い!」
爪を立てるわけにはいかないので、指の平で股間を必死に撫でながら、オレは再びミツバに話を聞いた。
「ハァ、ハァ、……で? 大きいって?」
「うん。すっごい大きいよ」
「おぁ、……っほぉぉ……それってぇ、ミツバよりか?」
「私より大きい」
「変な意味に聞こえるって!」
ゴリ松は股間や腹を掻きむしって叫んだ。
「とりあえず、早く帰ってきて。様子がおかしいの」
「わ、分かった」
オレが自分の股間に目を移している間に、ミツバは姿を消した。
「なあ。住職。ゴリ松」
「ええ。佐伯さんの家に向かいましょう」
「大きい女って……、あれぇ? なんか覚えがあるような……」
牛尾たちにも声を掛け、オレ達は廃旅館を脱出した。
外に出た途端、顔面には冷たい風が当たった。
膝まである雪の中を漕いでいくのは、狂うほど嫌だったが、立ち止まっている暇はない。
「行くぞ!」
「ほああああああ!」
オレ達は叫びながら、旅館の駐車場を突っ切るのであった。
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