仁義なき

 家に帰ると、――包丁が飛んできた。

 扉のガラスに刺さり、小刻みに振動する包丁の柄。


「っはぁ、はぁ。くそぉ。クソクソクソ!」

「……はぁ~……疲れた」


 へたり込む不知火。

 額の汗を拭うミツバが玄関先に立っている。


「何してんの?」


 不知火は胸元が見えるほど、着物が乱れていた。

 胸元、を見てオレは頭に鉄板が浮かぶ。

 やはり、オレは間違ってなかった。


 玉粒状の汗が浮かぶ白い肌は、胸の骨が浮き出ており、およそ胸と呼べるほどの膨らみがなかったのである。


 一方、ミツバは足の調子が不完全なので、少しふらついている。

 靴を脱いで、ふらつくミツバに駆け寄ると、大きな背中を全身で支えた。


「マジで何してんの?」

「運動よ」

「室内で?」


 ミツバは息切れこそしていないが、シャツが汗で湿っていた。

 不知火は肩で息をして、床に突き立てた拳が震えている。


「ちょ……っと。あんたぁ。どうして、ハァ、そっちを支えるのよぉ!」


 不知火が上目で睨んでくる。

 上唇が捲れ上がり、白い歯が剥き出しになっている。


「ミツバはまだリハビリ必要なんだよ」

「んなわけないでしょ!」

「お前こそ。どうして、汗だくなんだよ」


 汗で髪の毛が額や頬に張り付き、ボタボタと滴が床に落ちていく。


「そいつが悪いの! 私がやる事する事全部に口出しするから!」

「油はお湯で洗えばいいって言っただけじゃない」

「余計なお世話よ!」

「カーテンレール、まだ拭いてなかったでしょ」

「んもおおおおおおお!」


 不知火が頭を抱え、足をバタつかせていた。

 絵馬がイノセントな目で二人を見ていたので、ついでに玄関の扉を閉めるように言った。


 扉を閉めると、絵馬が何も言わずにリビングの方に歩いていく。

 その後ろ姿は、両親の喧嘩を目撃した可哀そうな幼子のようであった。


「絵馬が落ち込むから」

「絵馬様は関係ない!」

「君ねぇ。ヒステリックになりすぎだぜぇ」

「叫びたくなるわよ! 料理にまで口出ししてきたのよ⁉」

「リョウは糖尿病だから、味薄い方がいいのよ」


 まあ、生活習慣病ってやつだ。

 金持ってる奴ほど、栄養価の高い食品を選択できるから、実はなりにくい。でも、オレみたいに金がない奴は、安価で栄養が偏った物を食べてしまい、カロリーばかり無駄に摂取するから、すぐになってしまう。


 これでも、最近は食事生活と薬と運動の三つで、落ち着いてきた方なのだ。


 料理に関しては、不知火の手作りご飯が美味すぎるので、オレは何も言えなかった。


「リョウ。私の部屋に、トレーニング器具あるから。後でおいで」

「あ、はい」


 ミツバの部屋は、和室を当てた。

 玄関から入って、すぐ左側の部屋だ。

 畳の部屋なのだが、床が傷まないように柔らかいシーツを敷かされた。


 ミツバのリハビリと、オレの運動用らしい。


「くぅ、泥棒猫がァ!」


 掴みかかろうとする不知火を正面から抱きかかえ、全身で食い止める。

 不知火は歯軋りの音を立て、オレの腰を両足でガッチリと締め付けてくる。


「ふーっ、ふーっ!」


 こいつが抱き着く度に、必ず角がオレの頬か首筋に当たるのだ。

 上体を仰け反らそうとすれば、脇の下に両腕を回され、むしろ角が当てられてしまう。


「……小姑こじゅうとめ」

「うっ、ま、まず、事情は分かったけどさ。どうして、包丁振り回してんだよ」

「この女さえいなければ、旦那を守れるもん!」


 殺人事件じゃねえか。


「昼ドラじゃないんだから!」


 家に帰ってきたら、ドロドロとした空気を味わうって地獄過ぎる。

 肩を叩いて、「落ち着いたなら離れろ」と、今だけは優しく言ってやる。


「落ち着かない! こんなんじゃ、荒れた気持ちは静まらないの!」


 ぎりっ。

 全身を使ったハグで、片方の頬には角が減り込んだ。


 どうしたものか、と悩んでいると、ミツバが四つん這いで隣にくる。

 気配を察知した不知火は、両腕両足に力を込めてきた。


「ほぐっ」


 たぶん、刺さっていた。

 少しだけど、頬にピリッと痛みが走る。


「不知火さん。人目もはばからず、抱き着いたりしないで。10代の子がおっさんに抱き着くなんて、他の人が見たら通報されるわよ」

「結婚してるからいいの!」


 ちょっと待ってくれよ。

 オレの知らない間に、関係性がグレードアップしてるじゃねえか。

 確定してきてるじゃねえか。


 ふと、想像妊娠という言葉を思い出してしまい、オレはその被害者なのだな、と自覚してしまう。これも、不知火の嫌がらせなんだろうが、男としては、結構精神的にくるものがあった。


 しかも、それを好きな人の前でやられる屈辱。

 ある意味、寝取られに近い状態にある。


「タバコ臭いわよ?」

「臭いの好きだもん!」

「……おい。傷つくって」


 煙草は好きで吸ってる所はあるけど。

 魔除けにも使えるし。


「おっさんの体臭なんて、汚いだけよ」

「汚いの好きだもん!」

「何でも受け入れるじゃん。おま、本当に不知火かよ」


 少し前の不知火をミツバに見せてやりたかった。

 いや、出合い頭は目撃したはずだ。

 こいつがどれだけ男嫌いか。

 そこからの変わり様は、原形がない程である。


「離れなさい」

「やだ!」


 今の所、ミツバは優しい口調と表情だ。

 けれど、オレにはミツバが段々とイラ立っているのが分かった。

 高校時代から、そういう節はあったけど、ミツバは本気で怒る時、表に出さない傾向がある。


 自衛隊に入り、大人になってからは、いっそう傾向が強くなっていた。


「は~な~れ~……て!」


 風を切る音と共に、不知火の首には腕が回された。

 間近で見ると分かるが、思いっきり腕が首筋に食い込んでいる。

 ギリギリと締め付けられ、窒息するのではないか、と淡い期待をしてしまう。――が、不知火は頬を膨らませ、プルプルと震えながら耐えていた。


「……あぁ、マジで効かなかったんだ」


 首が強いのか。

 絞められても、表情が崩れない。


 ミツバは首を絞めたまま、後ろに倒れ込んでいく。

 小姑の物理的な攻撃に耐える不知火は、両足に力を込めてきた。


 すると、必然的にオレの体も引っ張られ、前にどんどん傾いていく。


「お、おい」


 ぐら、と倒れ込んだ時には遅かった。


 ゴツっ。

 鈍い音がした。


「い、ってぇ!」


 さらけ出した胸元に頭突きをかます体勢となったのだ。

 胸に額が直撃した音は、コンクリートに硬い物をぶつけた時と同じ音がする。


 そして、痛む額を押さえようにも、体勢が悪い。

 浮き出た肋骨に顔をゴリゴリと擦られ、「いででで!」と、悲鳴が漏れてしまう。


「ふん、ぬぬぬぬ!」

「強情だねぇ。根性だけは認めてあげる」

「ふんん、ぎいいい!」


 二人の女が争っている中、オレは必死に足の拘束を解こうと試みる。

 だが、踵が腰に食い込んでいるせいで、なかなか外れなかった。

 脚力がお化け過ぎた。


「一回止まって! ねえ。ダメダメ! いたた!」


 目の前には、胸を露出している女の子がいる。と、聞けば男なら何かしら期待するものだ。


 実際の光景は、性欲を刺激するものではなく、悲鳴と痛みの地獄絵図。

 女同士とは思えない、物理的な争いに巻き込まれたオレは、不知火のわき腹をタップして、ギブアップ宣言をした。


「ふ、二人に、お土産があるんだよ!」


 何とか、気を逸らそうと思った。

 叫んだ直後、二人の動きはピタリと止まった。


「お、おぉ、い、ってぇ……」


 両足の力が緩んだ隙に、急いで拘束から逃れる。


「お土産って?」

「さっき、絵馬が持ってったけど。まあ……」


 腰を押さえ、不知火に目を移す。


「……日本酒……かな」


 それを聞いて、何を思ったのか。

 不知火が期待に満ちた眼差しを向けてきた。

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