獄名

 仕事から帰ってきて、オレは温かいリビングに真っ直ぐ向かう。

 しばらくはソファに座って、ボーっとした。


 店では、不知火がババアをぶっ飛ばした後、大騒ぎだった。

 救急車は来るわ。

 警察は来るわ。


 オレは知らない振りを決め込んで、「いきなりガクガクしてましたねぇ」と、街頭インタビューばりに、心にもない事をほざいていた。


 ぶっ飛ばした張本人は、ケロッとした顔でオレの後ろに立っていた。

 帰りの電車に揺られてる時には、イチャつくカップルを見て、「ふしだらな!」と憤り、オレの懐に隠れていた。


 何もかもが、言葉そのままの意味で疲れた。


「あー……」


 不知火は、今お風呂に入っている。

 半日、オレの傍にいたから、臭いがどうのと言っていた。


 これから、どうすんだろ。

 殺す、とは言ったものの、何も手出しができていない。

 腕を組んで悩んでいると、横から視線を感じた。


「んねぇ」

「あん?」

「アンタ、不知火のこと、幸せにしてあげないとダメだよ」

「勘弁してくれよ。おま、何言ってんだよ」


 絵馬はオレに寄りかかってきて、漫画を読んでいる。

 漫画といっても、子供が読むようなものではない。

 中古で買った青年漫画で、エログロが激しいものだ。


「不知火。すっごい幸せそうに笑ってるもん。あんな顔見たことないよ」

「オレだって見たことないよ」


 オレと不知火の出会いを知っている者は、絶対に今の関係を疑うはずだ。あいつが押しかけてくる片鱗なんて、少しだってなかった。


「じゃあ、聞いてもいいかな」

「なに?」


 絵馬が仰け反って、顔を覗き込んでくる。

 イノセントな目を向けてくるちびっ子に、オレは直球で問う。


「……あいつ、何で?」


 不知火は、着物の懐に鉈を忍ばせている。

 さすがに人目がある場所ではマズいと思ったのか、ババアを吹っ飛ばした時は腕力で事を済ませた。


 絵馬はぷくぷくと頬を膨らませ、「んー」と考えた後、そのまま倒れ込み、膝を枕代わりにしてくる。


「やる時は、やるじゃん」

「……へえ」


 ほらな。

 はぐらかしやがった。

 絶対にオレの首を狙ってるに決まっていた。


「待てよ」


 今は、不知火がお風呂に行ってる。

 あいつは長風呂だから、なかなか上がってこない。

 住職が別名を知りたがっていたし、絵馬に聞いてみるか。


「おい。ちびっ子。不知火って、他に名前あるだろ」

「名前ぇ?」

「お前、元々閻魔だったじゃないか。不知火に、何か、名前とかあげてないの? 酒呑童子、みたいな」


 漫画から視線を外し、絵馬は首を傾げる。


「え、なんだろう」

「おいおい。お前が知らなかったら、誰も知らないぞ」

「何で知りたいの?」


 ここで、オレは頭と心を真っ白にする。

 八馬さんから、『心を読める』といった力がある事を聞いて、オレは絵馬と接する際に大事な事は思考停止で物を尋ねるようにしている。


 慣れたものである。


「あいつの事、知りたいのってそんなに変か? 一緒に暮らしてんだぞ」

「へえ。なんだ。


 意味深に頷き、絵馬が答える。


「私は知らない。――いでででっ!」


 即行で頬肉を引っ張った。

 手の平いっぱいにお餅のような柔らかい頬肉が収まる。

 よく揉んだ後に、左右に引っ張ると、絵馬は足をバタつかせた。


「だって、知らないもん!」

「腐っても閻魔だっただろ!」

「知らない! 名前って、獄名ごくめいでしょ!」

「……なんだ、それ?」


 小さなお手てで頬をぐにぐにと揉み、絵馬が体を起こす。


「自分の職務を表す名前」

「わ、分からねえ。分からねえよ! 死後の世界、ファンタジーすぎるって!」


 住職だって専門家ではないから、聞いた話とか、鬼に関する小話を教えてはくれたが、不明な点は多かった。

 なので、せめて名前を知ることができれば、その名に由来する伝承を調べてくれる、と飯を頂きながら、改めて聞かされたのだ。


「不知火は、私の補佐だったから。こっちで言う所の……秘書?」

「あいつが秘書?」


 全く、イメージが湧かない。


「でも、名前って、私付けたことないよ」

「じゃあ、誰が付けるんだよ」

「お姉ちゃん」


 嫌そうな顔で答えるのだ。

 絵馬には、八馬やまというお姉さんがいる。

 身長は、約2m30cm。

 この世の者とは思えないほどの美人。

 絵馬の天敵だ。


「ていうか、本人に聞けばいいじゃん」

「オレが聞けるわけないだろ。絶対に教えてくれない」

「ふ~ん。じゃあ、私が聞いてあげよっか?」


 ニヤニヤとして、絵馬が立ち上がる。

 何か企んでるのは間違いない。


「何が望みだ?」

「服とお菓子と本」


 絵馬らしいといえば、絵馬らしい。

 暇を潰す物が不足しているため、不満だったみたいだ。


「……カード……使うしか……ないか」

「決まりね」


 とてとて走り、絵馬がお風呂場に向かう。

 オレは後を追いかけ、お風呂場近くの壁に張り付く。


「ねえ。不知火!」


 ドンドン。


 曇りガラスを叩いて、しばらくすると、シャワーの音が止んだ。

 間もなく、戸の開く音が聞こえて、「はい?」と返事があった。


「不知火。お姉ちゃんから、獄名貰った?」

「はい。貰いましたよ」

「おせーて」

「え? ……阿防羅刹あぼうらせつですけど」


 名前を聞いて、オレは首を傾げた。


 ――なんだそれ?


「ありがと!」

「い~え」


 戻ってきた絵馬に手を引かれて、リビングに戻る。

 台所に移ると、絵馬がにっこり笑って手を差し出した。


「はい!」

「……なんだよ」

「金!」

「あのなぁ。金渡しても、お前一人で買いに行けないだろ」

「……くそ」


 八つ当たりで肩を殴ってきた。

 半分拗ねてソファに座ると、再び漫画を読み始める。


「今度買いに行こう」

「絶対ね。嘘吐いたら家燃やすから」

「……絞めるぞ」


 家には、厄介者がもう一人いるのであった。

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