第一半錠 死を求める男

 鞍玉くらたま駅から徒歩10分、寂れた小路の少し入り組んだところにある4階建ての古ぼけた建造物、小屋敷こやしきビル。その二階の北側、最も日当たりの悪い一室が小屋敷コウイチの住みかであった。ビルとは名ばかりなもので、その実態はアパートと大差ない。部屋という区切りを有し、住人がいて管理者がいる。まぁ、ヒトが居ついているという点では、建造物としては多分幸せな方だろう。彼の受け継いだ唯一といっていい財産。築四十年を優に超える老骨、それが彼の世界の全てであった。

 小屋敷コウイチは目覚めますと一番初めに窓を開ける。それが習慣、というよりは儀式のようなもの。朝だろうが夕方だろうが関係ない。たとえ唯一の窓の開けた先が、隣の建物の汚れが目立つ壁が見えるばかりだとしても。


 時刻は正午を過ぎた頃、今日も変わらずいつもの儀式を終える。淀んだ室内のそれより幾分かましな温かな空気が流れ込む。暦では9月に差し掛かる頃だが、見えるのは季節で変わることのない景色。特段目をとられることもなく背を向け、窓際の椅子に腰かける。

 9時間ほどの睡眠を終えた小屋敷の気分は悪くなかった。睡眠が浅く寝苦しい日が続いていたからだ。久しぶりの心地の良い目覚め、鼻歌交じりにフローリングのスケッチブックを手に取りパラパラとめくる。どこかの風景を切り取ったような線画が現れては消えていき、やがてまっさらな一枚が現れる。間に挟まれていた鉛筆を右手に持ち、更地に線を走らせ始める。時折目を閉じ、何かを思い出すように。

 そのスケッチブックに書かれているのは全て存在しない景色、小屋敷が夢で見た幻想だ。彼は描く、美しいと思ったものを消えゆく記憶で美化しながら。記憶の穴は理想で埋めていき、それによって絵は夢以上の美しさを帯びる。彼はそれを良しとは思っていなかった。だが、それ以上の方法を知らなかった。


 一時間ほどの時が流れたころ、黒線の集合は渓谷に架かるつり橋を形成する。おぼろげだった記憶はもうほとんど残っていない。だが、それ以上のものが紙上に。

 そろそろ完成だろう。そう思っていた小屋敷の手を止めたのは音だった。窓の外、低く鈍い音。絵を仕上げながらも立ち上がり、窓辺に寄る。そこ地上を見下ろした小屋敷の目に飛び込んできたのは、血に染まった名も知らぬ女の後ろ姿だった。

 小屋敷の視力は両目とも2.0ジャスト、25年間ずっと変わっていない。だから二階ここからであろうと見間違えることはない。隣との隙間、幅2mもないそこには死体がある。それが確かな事実だった。

 昼飯まだでよかったなぁ、浮かんだのはそんな感想。道でセミの最期を見かけたときのようなもので、他人の死に対して心はそれほど痛まなかった。おそらくまだ現実感がないのだろう。なにより、今最も恐ろしいことは小屋敷ビルが事故物件になるかもしれないという点だった。

 何とか生きてたことにするか、そもそもの事実をなかったことにするか。そんなどうしようもない二択を考えていると異変に気付く。おかしい、死体が動いている。いや、苦しんでいるのか?少なくともそういう風に見える。ありえない……のか、それとも人体の神秘?死後に動くなんて。そんな自問自答が脳裏をよぎる。だがその答えが出る前に、注視していた死体は寝返りをうつように仰向けになった。…これはただの死体ではないようだ。でもなぜだろうか、その生と死が入り交じった姿を見て、美しいと思ってしまう自分がいた。

 無意識の内に鉛筆は走り、彼女を描き出す。ヒトを描いたことはない、描こうと思うこともなかった。でも今は描かずにはいられないのだ。呼吸と共に上下するシミだらけのシャツ、乱れた頭髪、傷一つないのに血の滴るその表情。そーゆう趣味はなかったが、不思議と興奮していた。

 出来上がりつつあるその一ページに気をとられていると、彼女はいつの間にか立ち上がり歩き出していた。ああ、まだ終わっていなかったのに。そう思いつつも目は彼女を捉え続ける。軽くて弾むような足取り、見ているこっちも楽しそうに感じる。そうか、これが生きるということか。何となくそう感じた。

 そのままの勢いで彼女は道に飛び出す。だが、残念なことにタイミングが悪かった。車道にフッと現れた軽バンにそのまま弾き飛ばされ、小屋敷の視界から勢いよく消えていってしまった。

 フフッ、ギャグ漫画みたいなシチュエーションに妙な笑いを漏らす。そしてあることに気付く。また死んだのではないか、そしてあの時感じた美しさをもう一度見れるのではないかと。

 上着を羽織り、玄関を目指す。もちろん手にはスケッチブック。あの時以上の感動に期待を膨らませながら。久々に聞いた閉まる扉の音を置き去りにして、階段を駆け下りていくのだった。

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