『抗絶望薬_糖衣錠』

三柿にしん

第一錠『死にたい』願望


 人間は誰しもその深さや大小関係なく絶望することがある。そして訪れることだろう、『死にたい』と思う瞬間が。それでもほとんどの場合に死まで至ろうとしない、何故か。死よりもより手軽な手段、時間や心を埋めてくれる存在がその病を癒すから、私はそう思っている。しかし残念なことに私にはどちらも持ち合わせがなく、病は収まらない。だから、だからそのでもって治すことにした。


「それが君の望みなのかい」

 そんな言葉を投げかけられたのは屋上からビル間の暗闇を見下ろし、いざ空へ身を乗りださんとするまさにその瞬間であった。思いもよらなかった刺激に身体が硬直し、手すりから手を離せなくなる。

 誰だ、扉に鍵はかけた……はずだ。そもそも人が来るはずのない、そういう場所と時間をわざわざ選んだ。来るとすれば悪趣味な死神や悪魔とかの類だろうか。そんなことを考えながらも声に振り返ることも、言葉を返すこともしない。止めてくれるな、心は『死にたい』と呪文のように繰り返しているのだ。

「なら叶えてあげよう、それほど強く願うのなら」

 先ほどと変わらず少し遠くに聞こえるその言葉。それと同時に柔らかく、そして温かい力の緩流を背中に感じる。それに背を押されるように、風に舞う羽根のような軽やかさで私は宙に躍り出た。束の間浮遊感、そして物理法則に基づいて地へと引き寄せられる。

 近づく死を前に走馬灯がよぎる、なんてのはよくある話。だがそんな感覚はいつまでも訪れることなく、ぼんやりと「さっきの奴は一体何だったのか」そんな疑問が頭をよぎる程度。今更答えなんて分からないし、それを知る術もないだろう。ただそのままその時を待ち、来たる衝撃を想像しながら目を閉じる。加速を続けた私に、遂に待ちわびた瞬間が訪れる。

 鈍い音がビル間に反響し、空へ消えていく。流れ出る血潮の微かな音もやがてなくなり、何事もなかったような静寂が再び訪れる。コンクリート張りの地面にはかつて生者だったものが無惨に横たわるのみ。私の悲願は叶った。


 はじめに感じたのは猛烈な頭痛、こみ上げる吐き気そして恐怖。身体は酸素を、救いを求め、過呼吸のような状態。うつぶせのまま背中を丸め耐えるほかなかった。私は死んだ。死んだはずなのだ。いや、つまりは地獄か、そうなのか、そんなものあるはずがない、痛い、暗い、血、固い、現実?、ああぁ、思考が定まらないぃ。

 コンクリートに広がった血だまりの中で、死の前とはまた違う苦痛に藻掻きながら全身を確かめる。どこも折れていない、それどころか、傷一つ見当たらない。全く変わりない身体。ただ、この赤黒い水たまりと衣服を染め上げる何の液かもわからないものは、この身に起きたはずのことを物語っており、何よりも地面とぶつかる瞬間の嫌な感触がまだ全身に残っている。あたかも一度死んで蘇ったかのように。

 少し落ち着きを取り戻したところで仰向けになり、ビルに切り取られた空を見上げる。薄く広がる雲々、切れ間から漏れた優しい光が私を照らしているのを感じる。温かい。そうか、どうしようもなく私は生きているらしい。

「もう一度やらないといけないのか」ふざけんな。無意識に出た言葉がそれだった。飛び降りは思っているよりもクソだった。というよりも死は思っていたよりも甘美なものではなかった。

「次はもう少しマシなやり方を考えよう」そう口にし、ゆっくりと立ち上がる。気分は晴れやかで前よりも前向きになれる。

 前後を確認。一方は行き止まり、反対の車道の見える方へ向かう。出直しだ、とりあえず家に帰ろう。一歩一歩確かめるように進み始める。不思議と足取りは軽い。弾みがついたところでスキップ、ステップ、ジャーンプ。ジメジメした隙間から明るい世界へ身を乗り出す。絶望なんて微塵も感じさせない文字通り生まれ変わった姿で。次の瞬間、身体は宙に舞い、車道8m前方に弾き飛ばされた。

 今更になってあの時かけられた言葉を思い出す。私の望みは『』だったのだろうか。それを叶える呪いで生まれ変わった、そう理解したのは本日二度目の蘇生を果たした直後のことであった。

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