第26話 最後の神判
(体中が痛い。肌を流れ落ちる血液は熱いのに、体は凍えるように寒い。あぁ、きっと前兆なんだね。生と死の切り替わる前兆。でもどうしてかな、頭の中はスッキリして心地いい。さっきまで雑音にしか聞こえなかったあなたの声が、今になってはっきり聞こえたんだ)
ユッピーが目を開くと、そこには一羽のカラスがいた。
死体をついばむためにやってきたのか。いや、きっと助けに来てくれたのだろう。
軽く微笑みながら震える手を伸ばすと、カラスはそっと頭を差し出した。
カラスの向こうには自分の精霊が見える。
『ジャンピング・ガール・ソング』、もといウサちゃんの姿はいつも通りに小柄で愛らしい二足歩行のウサギの姿だ。
(行こう、あたしはこのためにやってきた)
『助けて』と、親友の声に応えられるのは自分だけだ。ユッピーは精霊を通して、自分の思いをカラスへと託す。
誰がその親友を傷つけているのか、気を失っていた彼女には分からなかったが、進むべき道は“彼”が教えてくれた。
「そのまま突っ込めぇぇぇーっ!!」
その言葉通りにユッピーは切り開く。神の意思だけが知っている、本当に正しい未来への入り口を。
光が溢れだす。
ユッピーは今にも倒れそうな自身の体を何とか奮い立たせ、その様子を見守っていた。
やるべきことはやったかもしれない。
だが、安心して眠りにつく気にはなれなかった。
これから先は何が起こるか分からない神判の時間。
豊姫が助かるその瞬間まで、決して気が抜けない時間なのだ。
「まだ何も終わってないんだ……!」
ユッピーは祈りと共に立ち続ける。
その思いは、もう一人の彼女も同じだった。
「まだだ!まだ何も始まってはいない!」
フローリアは扉の開放に気づくと同時に、扉の裏側──ユッピーのいる場所とは逆方向──へと全力で走り出していた。
「トーワの
「あいつ……逃げる気……!?」
走っていくフローリアの姿がユッピーの目に映る。
ユッピーも、統和がフローリアに封じ込められた瞬間は見ている。
あの女を逃がしてはいけない、とすぐに悟った。
「このままあいつが逃げおおせて、それで扉が消えた後で戻ってきたら……あたしたちは終わる!ウサちゃん、何とかしてあいつを──」
「いや、君はそこにいろ」
「えっ……!?」
誰かの声にユッピーの足が止まる。
「あと少し……あと少しだ!」
フローリアに確証はなく、言ってみればただの直感だった。
ただ、彼女の目測は当たっていた。
“あと少し”……彼女が伸ばした左手は、確かに『オーディール・ドアー』の範囲から外れていた。
「うっ!?」
伸ばした左手の手首から先が吹き飛んだ。
驚く間も無く、フローリアの体が羽交い絞めにされる。
「だ、誰だ……!?何をしたぁぁぁっ!?」
「おや、分からないかね?よく見たまえよ、君は知っているはずだ」
「なっ!?」
行く手を遮る影の姿が克明になっていく。何本もの注射器で頭部を覆う二足歩行の精霊が握り拳を作っていた。
そしてフローリアを押さえつける何者かの声。それは彼女にとっては忘れたくても忘れられない、心の底から憎悪を噴出させてくるあの男の声だった。
「チャックル・ハック!!まさかトーワの扉が生み出したのか!?」
「はははっ!随分と無様な姿じゃないか。私の『ウーフー・フーニブ』、これでも人の腕をへし折るくらいの力はあるのだよ。もっとも君の左手は殻で覆われた偽物。へし折るどころか割れてしまったようだが」
「ぐっ……!」
フローリアの切断された左手は、断面がパイプのように筒状になっていた。
その空洞の中でもがいているものこそが、彼女の本物の左手だった。
「まんまとしてやられたなぁ?この状況を作り上げたのは他でもない、君が必死こいて勝ちたがっていたユッピーだよ。どんな気分だ?今でも自分の方が格上だと胸を張って言えるのかね?んん?」
「だ、黙れ……
「なに遠慮することはない。今度はいつまでも抱いてやるぞ。こうしてほしかったのだろう?」
「離しやがれクソがぁぁぁっ!死んだ負け犬がいつまでもこの世にしがみついてんじゃねぇぇぇっ!」
「今だユッピー!」
チャックルの合図と共に、バサバサと羽ばたく影が前方に舞い降りる。
今度は一羽ではなかった。始まりの体当たりを放ったカラスが、愛する主人のために仲間を引き連れていた。
「やめろおおおおおォォォォォーッ!!」
フローリアの体が後方へと押し戻される。
掴み損ねた平穏が遠ざかっていく。
──そして絶望の叫びが夜の闇を切り裂いていく。
「それでいい、ユッピー。君はそっちで元気に生きていきたまえ」
「はぁ……はぁ……あなたは……?」
「もう二度とこっち側に来るんじゃないぞ、ウーフー!」
負傷でぼやけたユッピーの視界の中、その人物は静かに霧散していった。
「ぐっ……!こ、ここは……!?」
ズキズキと痛む頭をさすりながら古御出は目を覚ました。
何十年も眠り続けていたかのように体が重い。気を失う前の記憶も曖昧だった。
だが休んでいる暇はなかった。
「ギャアアアアアアアッ!!」
「っ!?」
この世のものとは思えない恐ろしい絶叫に、古御出の身が強張った。
日本の治安を守る者としての使命感が蘇り、脳を刺激する。
──しかし、その絶叫の方へ目を向けた瞬間、彼の脳は再び停止することとなった。
「俺の頭が……おかしくなっちまったか?」
大勢の集団が一人の女性を押さえつけている……と、そこまでならまだ理解の範疇に収まる。
問題はその集団を構成する者たちと、彼らが女性に加えている危害の数々だった。
「何の集まりなんだよ……!?」
アフリカの部族と思しき男性たちが女性の両足を矢で貫き、石を振りかざして皮膚を打ちのめしている。
衣服の乱れた女性たちが剃刀を手に、その女性の右手を傷つけている。
飢えたピラニアが陸の上にも関わらず威勢よく跳びはね、女性の左腕に群がっている。
獰猛なクロヒョウが女性の頭部に噛みつき、さらにはそのクロヒョウの背に跨った白衣の老人が真上から女性の喉元へと薬品を垂らしている。
兵隊が周囲に大挙して銃を構え、一発、また一発と女性に撃ち込んでいる。
「…………」
言葉が出ない。
めちゃくちゃだった。
年齢、国籍、性別。それどころか生物としての種も異なる無数の集団が、互いの行動を妨げることなく一人の女性を痛めつけている。
そしてさらに奇妙なことに、そこには出血というものが一切見られない。
その代わりに、削られ抉られ溶かされた女性の肌からは、細かな粒子と共に紙幣や宝石といった金銭的価値の付随するものが次々と溢れ出してくるのだ。
古御出はその現象を知っていた。
「『ピーナッツ・プレーン』の殻……まさかあいつがフローリアだってのか!?」
にわかには信じられなかった。
顔中を覆う殻が剥がれ落ち、その中から現れたもう一つの顔は、ラクダのこぶが組み合わさったような見るに堪えない風貌だった。
彼女は自分の身体を美しい美貌の殻で包み込み、同時にありとあらゆる罪の痕跡を封じ込めていたのだ。
先程まで古御出自身もその一部だった。
だんだんと記憶が蘇ってくる。同時に鳥肌が立ち始めた。
「まさか……と、統和ぁ!お前、何てことを……日本がどうなるか……!」
「ギゴガアアアアアアアァァァァァァァッ!!」
ミシミシという音が鳴り響く。
そして次の瞬間、噴水のように“それら”が噴き出した。
「嘘だろ……あれが全部爆弾だってのか……!?」
大量殺戮を可能とする化学兵器を筆頭に、チャックルを爆殺した普通の爆弾が留まることなく撒き散らされていく。
その全てが例外なくカウントダウンの音を鳴らし始め、周囲一帯がかつてない騒音に包まれていく。
「も、もう終わりだっ!」
古御出は叫んだ。
──次の瞬間、フローリアを取り巻いていた集団が光へと姿を変えた。
それだけではない、『オーディール・ドアー』の扉もまた光となり、巨大な一つの球となって夜空に浮かび上がった。。
その球はやがて円盤を形作ると、空中を旋回しながら地上の爆弾を次々と吸収していく。
「うおおおおおおっ!?」
古御出が叫ぶ。
爆弾同士が接触し合う音に、なおも鳴り続けるカウントダウンの音が相まって彼はパニック状態だった。
そうして全ての爆弾と化学兵器を回収した円盤は、いつのまにか手の届かぬ高さまで上昇していた。
円盤はあっという間に小さくなっていき、夜空を彩る星々の役目を一瞬だけ堪能した後に消滅。
──あとは静寂。
「…………助かった……のか!?」
ユッピーと豊姫はその場で意識を失っている。
フローリアは虚空を見つめながら焦点の合わない目で何やら呟いていた。
「統和は……!?」
古御出は周囲を見渡すが、それ以外の人影はどこにも見当たらない。
「フローリア、さてはお前だな!?俺と同じように統和を埋めたってぇなら……!」
「ヒ、ヒヒ」
「どうして出てこない!?お前の殻は全部砕かれて、俺もこうして出てこれたってぇのに!」
「ヒヒヒ、ヒッ」
フローリアは掠れた声で笑うだけ。
「……俺が出てこれたのは、お前の“俺に対する攻撃”の罪が滅せられたから?だったら統和は……統和はどうなるってぇんだ!?」
古御出は知っている。
“統和に対する攻撃”は罪とはみなされない。
よって滅せられることもない。
「ザマミロ」
「嘘だろ……統和!統和ぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」
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