第21話 男は止まる

 チャックル・ハックは十五歳の頃、ちょっとしたアルバイトに関わっていた。

 誰かがわざと路上に放置した忘れ物を拾い、善意の第三者のふりをして別の誰かに届ける。

 たったそれだけのことで、“少しばかりの謝礼”が手に入るのだ。

 もちろん、まともなアルバイトでないことはチャックルにも分かっていたが、その真意を知ったきっかけはふとした心配りからだった。


(これを運ぶ?こんなちっぽけな小銭入れじゃ何も入らないと思うのだが、間違ってないか?……安くない金を貰ってるんだ。確認くらいしておいてやるか)


 そこでようやく、彼は自分が運んでいる物の正体を知ることとなる。


『知ってるか、チャックル。人類の大半が気づいてねぇのよ、自分たちがずっと眠ったままってことに……ふっ、フヘヘェッヒヒヒヒヒ!おぉぉ俺たちだけが辿り着いてんだよ、本当の人間のあり方って奴にさぁぁぁハハハ!変わるぜ世界!』

『では、私はこれで。失礼』


 人間が、人間でなくなっていく。


(私の行いは間違いなく罪……そして私は悪だ)


 たとえ仲介人であったとしても、他人の人生を壊しているのは事実だ。

 だが、不思議と罪悪感はなかった。

 その代わりに彼の心を満たしたのは……嫌悪感。


薬物中毒者こいつらは生者とは程遠い、死人だ。それも誰かに殺されたわけではなく、自ら深淵に身を投げて生まれた死人。……反吐が出る!)


 チャックルには、覚醒剤に手を出す彼らの生き様が単なる自殺行為にしか思えなかった。

 それが現実に絶望した末の自殺であれば、まだ同情の余地はあったかもしれない。 

 だが彼らの行為はそんな悲劇的なものではなく、むしろ喜劇。

 まるでカメラを片手にした観光客のように浮かれたものだった。


『おっ、届けてくれたのか!困ってたんだよ、それ落としちゃってさー!』

『バーカ!そんな設定どうでもいいんだよ!よこせやオラ!』

『マジ楽しみぃ!』


 『なぜ自殺するのか?』と聞かれて『ちょっと死後の世界が気になった』とあっけらかんに答え、笑いながら死を楽しむ。

 チャックルが破滅に追いやったのは、そんな人間たちばかり。


(私は時期を早めているだけだ、薬物中毒者こいつらが破滅する時期を。私なんか“いてもいなくても変わらない”……こんなクズ共、どうせいつかは破滅するに決まっている)


 ──ここが一つの分岐点だったと、そう気づいた頃にはもう遅かった。

 この時に彼が抱いた負の感情が、覚醒剤との関わりを断ち切る足がかりになり得るものだと気づけていれば。

 彼が“いてもいなくても変わらない”存在であるうちが、足を洗える最善のタイミングであったと気づけていれば。




 数カ月後。チャックルはいつものように商品を運びに向かった先で、些細なトラブルに巻き込まれることになる。

 とても些細なトラブルだった。チャックルの運んだ覚醒剤の量が予定よりも少なかったのだ。

 一体どこで誰が何を誤解したのか?

 真相は分からない──否、不要なのだ。この事態を丸く収める方法、それが真相になるだけである。


『ち、違う!私は何も──』

『うるせぇっ!!』


 薬物中毒者たちがチャックルの体を押さえつけ、殴り、また押さえつける。

 仲介人が秘密裏に覚醒剤を掠めていた。それが最も分かりやすかった。


『ゲブッ……ごェ!』


 チャックルは薄々、自分が機を逃したことを感じていた。

 “いてもいなくても変わらない”時期はもう終わった。今の彼には唯一の無二の価値が存在するのだ。

 すなわち捨て駒である。


『お前さぁ、俺たち相手なら“上手くいく”って思ったんだろ?俺たちのこと見下してバカ扱いして“自分の方がバカかも”なんて思いもしなかったんだろ?んー?』

『気持ちよかったかぁ?楽して稼げる方法を思いついちゃったぁ自分は天才だぁ、なんつってぇ!?』

『だはははは!!』


 チャックルの心に嫌悪感が膨れ上がる。

 確かに彼は現実を甘く見ていた。自分の置かれた危険性を理解していなかった。

 ……それが何だというのか?

 彼が目の前の者たちに抱く感情は同じだ。


(私の方が下だと分かったなら尚更、上に行かなければ気がすまない!)

『なんだその目は?まぁだ妄想に酔ってんのかよ?まったくよぉぉぉ……』


 男がカッターナイフを手に取る。


『中間搾取でイキってんじゃねーぞ受け渡しコピペだけの雑魚がよぉぉぉーっ!!』


 予定では、そのままチャックルの両目を抉り取って、捨て駒の役割を完結させるはずだった。

 だが……!


『…………これはお前がやったのか?』


 男たちはカッターナイフを手放し、チャックルを押さえつけていた腕を放し、地面に横たわって……恍惚な表情を浮かべていた。

 そして彼らの傍らに立っているのは、注射器だらけの異様な頭部を持つ人ならざる何かだった。


『違う、これは私がやったのだ。こいつは私の体から出現したのだ、ウーフー!』


 男たちは、単に覚醒剤を接種したときとは様子が違っていた。チャックルに従順な下僕となり、体の調子も良くなっていた。

 そこから先はトントン拍子だった。


『お前だな、チャックルをハメようとしたのは』

『な、何だお前らは!?チャックル、これは何の真似だ!?』

『すっとぼけてんじゃねぇぞカス野郎ぉぉぉーっ!!』


 “覚醒剤の量が少ない”、その責任がチャックルに受け渡しを命じた売人へと移る。

 そして売人の存在は闇へ葬られ、空いた椅子には自然とチャックルが座ることになった。

 もはや誰も彼を“いてもいなくても変わらない”とは思わない。

 彼は完全に軌道に乗った。

 『ウーフー・フーニブ』、そう名付けられた精霊が、チャックルの地位をより確固たるものにしていったのだ。






(そうして私は今、ここにいる。『ウーフー・フーニブ』が顕現したあの時から止まることなく、私の足は走り続けてきた)


 崩れ落ちた倉庫の下。チャックルは感傷的な気分に浸る。


(その足が……こんなにもあっさりと止まった。もう二度と罪を犯さないと、その決意に何の未練もない。自分にビックリだよ、統和くん)


 瓦礫に埋もれた足元から音が鳴った。

 倉庫が崩れ落ちる直前に聞いたものと同じく、何かが砕け散るときの音だった。


か。通信が切れた時点で予感はあったのだよ、統和くん。やはり私への攻撃がまだ続いている……上手くいかないものだなぁ)


 ゴソゴソと体を動かしながら、達観した表情でチャックルは思う。


(そうだとも、私の罪は覚醒剤だけに限らず、この場で思い出せないものがいくらでもあるではないか。これでは反省などしようがない。滅せられるのは統和くんの精霊だけだ)


 カチカチと、時計の針を刻むような規則的な音が聞こえ始めた。


「だがなぁ、統和くん……私は感謝しているのだよ君に」


 チャックルが無意識に求めていた、あの日に掴めなかった“きっかけ”。それを統和が与えてくれた。

 人間の汚い部分を見続けてきた。自分の欲望のために他人のありとあらゆるものを犠牲にする、そんな人たちばかりを相手にし続けてきた。

 そんな人生を今、統和が解放してくれた。

 だからこそチャックルは統和に言葉を遺したかった。

 いくら声を上げたところで通信機は無視するだろうが、それが無意味な行為だと笑う者はこの場には一人もいなかった。


「ウーフー!」


 カチカチという音が止まった。

 次の瞬間には光と熱。チャックルは大きな衝撃と共に空を舞った。

 自分の両足が血しぶきを撒き散らし、自分と正反対の方向へ飛んでいくのを目の当たりにしながら。


(この声が君に届くのを祈っているぞ……統和く…………)


 断末魔の声は上がることなく、チャックル・ハックは二度と戻れない世界へと旅立っていった。

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