第18話 小さな意思

 右に。左に。気を抜けば倒れそうな体を必死に立て直しながらユッピーは歩き続ける。

 どこへなのか?どうしてなのか?

 考えようにも頭はズキズキと痛みを発し、目の奥ではチカチカと黄色い光が光っている。

 自分の体の中に警報機でも仕込まれたような気分だった。


「ここは無事だったか。統和くんから十分に距離は取っていたが、さすがに心配だったよ」


 チャックルがそう言って倉庫の扉を開き、電気をつける。

 先ほどまでの倉庫とは比べ物にならない広さ。中には図書館のように棚が並び、大小様々な段ボールが並んでいる。

 無論、彼にとって必要な物はごくわずかであり、それ以外はフェイクである。


「まずはユッピー、よくやったと褒めておこう」

「…………」

「そして驚いたよ。私の下に通い詰める奴らは全員、覚醒剤を求めている。当然だな、私はそういう仕事をしているのだから。それが君の場合は……いや、これ以上はやめておこう。君は既に過去と決別した」

「…………」

「ほれ、これを見てみろ」

「あ、うぅ……ぐ!」


 チャックルが自身の精霊を顕現させ、頭部の注射器を一つ手に取る。

 すぐにユッピーが反応を示した。


「欲しいだろう?」

「ぐ……ぐぅ……!」

「恥ずかしいことではない、ごく自然なことだ。症状……いや、摂理と言ってもいい。誰も逆らうことはできない」


 だから君も逆らわなくていいのだよ。

 チャックルの口よりも先に、ユッピーの耳が言葉を聞く。

 ──甘い言葉だ。

 たった一滴の雫を垂らすだけでドロドロに溶けて消えていく。人間の意思など角砂糖のようなものだった。

 どれほど強固に取り繕おうとも保てやしない。


「夢を見るのだよ。とても甘くて儚い夢をね」

「…………」


 ユッピーは静かに、首元をチャックルに差し出した。




(そう、これは夢だったのよ)


 ズキン、ズキン、ズ──、………。


(あぁ、頭痛が和らいでいく)


 ユッピー、ユッ──、……。


(あたしを呼ぶ女の子の声が聞こえていた気がするけれど)


 ガコン……。


(もう何も無い……あたしを苦しめるものは何も無い)




 空っぽになった注射器を持ったまま、チャックルは訝しげな表情をしていた。


「……ユッピー、君にも聞こえたかね?」

「…………」


 彼女は恍惚の表情で立ち尽くしていて、問いかけには応じない。


「チッ、もう陶酔トリップしたか。今のが私の空耳だったのか、若者の耳に相談したかったのだがな……」


 虚ろな目で立ち尽くすユッピーを放置し、チャックルは周囲を見渡す。

 彼にも罪を犯している自覚はある。そのうえ人体に注射針を打つとなれば嫌でも神経質になる。

 些細な物音がやけに気になったり、いつもより大きく聞こえるのも決してありえないことではない。


(当然だが幻聴ではない。自分の覚醒剤しょうひんでハイになる売人はいないからな)


 その時、再びガタンという物音が耳に入る。

 今度は空耳ではなくハッキリと聞こえた。


「……なんだ、ネズミか」


 段ボールの隙間から窮屈そうに数匹のネズミが現れた。

 床に飛び降りて走っていく所から、「ユッピーの帰還を出迎えるつもりなのだろう、とチャックルは考える。


「だが……ネズミ?見張りを仕込んでおいたとでもいうのかね?ふうむ……」


 統和の来訪を感知し、居場所を特定できたのはユッピーの能力で築き上げたネズミの情報網によるものだ。

 チャックルの倉庫を守るためにも当然、活用することはできる。

 だが、ユッピーがチャックルの忠実な下僕に堕ちたのはつい先程のことである。


「誰のためだ?私のためなら事前に言っておくはずだ。言ったところで、こんな薄汚いネズミ共を走り回らせるなど許可しないが」


 チャックルのためでないとすれば、残る可能性はユッピー自身のため。

 彼女が自分に敵意を持っていたのであれば、何かしら良からぬことを考えていてもおかしくはない。


「真っ先に思いつくのはビデオか。君はあれが公開されることを恐れているという話だったな。私にそんな気は無いからもうどこにあるか知らんが」


 ネズミたちは小柄な体で、視線の合わない主人を見上げている。

 そのうち一匹のネズミが駆け出し、体を登り始めた。


「……まぁいい、君の狙いが何であれ過ぎたことだ。既に君は私に歯向かう気力を失っているわけだからな。はははっ、ネズミが健気に呼びかけているぞ」


 ユッピーの肩で鳴き声を上げる一匹のネズミをチャックルは思わず嘲笑わう。

 つぶらな瞳で小さな口を動かしながら、自分が操られていることはもちろん、主の異常にも気づいていない。

 あまりにも惨めな姿だった。


「聞こえやしないさ、そんなな呼びかけじゃ」


 チャックルが言う。

 ネズミたちがユッピーの指示通りに動いていたのであれば、理論上はチャックルの言葉も理解できるはずである。

 ただ、チャックルは最初から言葉が伝わるとは思っていない。

 彼自身、ネズミと意思疎通を図るつもりもない。

 これは一方的で意味のない会話であり、同時に形を変えて嘲笑い続けているだけなのだ。

 ――つまり、これから起こることは偶然である。




 耳からへと、呼びかける方法を変えたのは……すなわちネズミが食らいついたのは偶然である。


「あ?ユッピー……?」


 綺麗に伸びた前歯が柔らかな人肌に押し込まれ、穿り出していく……人間の生命を彩る紅の雫を穿り出していく。

 変えたのは呼びかける方法のみ。ネズミたちの態度は変わらない。

 つぶらな瞳で小さな口を動かしながら、ネズミらしく戯れている。


「…………ぁぐ!」


 ユッピーから零れた小さな声に押されたように、足元に控えていた他のネズミたちが動く。

 脚に、腹に、手に。よじ登ってその歯を突き立てる。


「ぐぐぁ……ああああああああァァァァァッ!!」


 ついに彼女の声が木霊した。

 体中を貪られて止めどなく溢れる血液と共に、堰を切ったように叫び続ける。


「な、何を……何をしとるんだ!?これは君の意思なのか!?」

「あああああァァァァァッ!!」


 チャックルの声が聞こえていない。

 地面を転がりながらネズミたちの餌食となっている。


「くっ、『ウーフー・フーニブ』!さっき打った成分で、再びユッピー自身を凶暴化させてやる!統和くんを圧倒したその力があれば、ネズミごときに取るに足りん!」


 ユッピーの体が大きく跳ね上がる。

 打ち込まれた覚醒剤は、チャックルの指先一つで体に大きな変化をもたらすことができる。

 ……だが、それまでだった。

 すぐにまた地面に倒れ伏し、ネズミたちと戯れるだけの時間が待ち受けていた。


「馬鹿な!なぜ効かない!?さっきよりも濃い奴を打ち込んだのだ!こんなに早くタイムアップになるはずがない!大体──!」


 なぜネズミがユッピーを襲う?

 チャックルの脳裏を埋め尽くすのはその一点だった。

 覚醒剤の影響とは思えなかった。

 彼自身、これまでに何度も覚醒剤を取り扱ってきたし、精霊を持つ者を相手にしたことも何度もある。

 『ウーフー・フーニブ』でコントロール不可能な事態など初めてなのだ。


(まさかとは思うがユッピー、『ジャンピング・ガール・ソング』の能力に起因しているんじゃないだろうな!?何かデメリット、すなわち裏切られる条件があるとでもいうのかね!?例えば……そう、統和くんとの戦闘でユッピーはサメに鞍替えした!ネズミからすればフラれたわけだ!それがきっかけか!?)

「た、たす……たす……け……」

「……お、終わった……のか?」


 いつしかユッピーは全身を震わせながら血だまりの中に倒れていた。

 ネズミたちは彼女の体から離れ、赤く染まった毛並みを光らせながら整列していた。


「待機しているのか……?ユッピーが戦闘不能になったなら精霊の能力も消える。ネズミたちも元に戻るはずだが……、……?これは?」


 ユッピーの体に刻まれたの傷の数々はどことなく不自然な状態だった。

 出血量こそ多いものの、白上巡査を殺害した時のように頭部全体を貪りつくした光景とは大きく異なっている。

 ドリルで穴を開けるかのような一点に集中した攻撃がほとんどだ。

 無作為ではなく狙いを定めた痕跡。

 これは間違いなく意志が働いている。


「く、詳しく調べてみるべきかと思ったが……許してくれないのかね?」


 チャックルはなぜか震える声で問いかける羽目になっていた。

 今ならネズミたちと意思疎通が図れるのではと、そう思わずにはいられなかった。

 なにせ彼らはこぞってチャックルの方を見つめていたのだから。


「か、確信した!これはユッピーの能力ではない、別の何かだ!明確な意思を持って私たちを狙っている!」

「ヂヂヂヂヂィィィーッ!!」

「次は私を標的に!う、うおおおおおぉぉぉーっ!!」


 頭が割れるような金切り声を上げながらネズミたちが襲いかかる。

 チャックルは倉庫の奥へと走った。もとより、彼らの群れへ突っ込んで入口を目指す勇気は無かった。


終わりだイッツ・オーバー

「なっ!?」


 倉庫の中には人がいた。

 その右手に見えるのは紛れもなく拳銃だった。


「ぎゃっ!」


 チャックルの両足に続けざまに二発。

 倉庫の中に火薬の臭いが立ち込めていった。

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