第14話 夢現

 世界から自分一人だけが切り離されたような錯覚。

 ユッピーの脳裏に響いてくるのは、一昔前の録音データのようなノイズだらけの音声だ。


『おい、聞いたか?デッブの奴、覚醒剤ヤクに手ぇだしてるらしいぞ!』

『隣のクラスの奴が言ってたんだ、夜の八時に港の倉庫に行くとな──』


 豊姫を貶すためだけに作られた作り話。それ以外の解釈はできなかった。

 わざわざ時間をかけて、創造力を働かせて。たかだか人間一人の中傷のために、そこまで手間暇をかける意味があるのだろうか。

 ユッピーは苛立った。

 別にこの手の作り話は掃いて捨てるほどある。いちいち相手にするのは時間の無駄だ、と言う大人もいるだろう。

 だが、ユッピーの場合は事情が違った。

 自分が声を上げることで豊姫への陰口は確かに抑えられていた。その手応えがある以上、放っておくという選択肢は存在しなかった。


『嘘だって証明してやるのよ。言い逃れできないように撮影してやるから』


 そうして彼女は向かう。

 運命の歯車を狂わせた、あの場所へ──!




『何だ、また一人増えたのか?全く、高校生にもなって赤信号を一人で渡る勇気も無いのかね?』

『ち、違うんです!チャックルさん、こいつは……その……!

『おい、何でユッピーがここにいるんだよ』

『知らねぇよ、お前が何かやらかしたんじゃねぇのかよ』

(…………ナニ、コレ?)


 思考が硬直した。


(作り話じゃなかったの……!?じゃあ、トヨは……まさか本当に!?)


 この局面で柔軟に物事を考えられるほどユッピーは冷静な性格ではなかった。

 豊姫の噂話と眼前の光景──覚醒剤に手を出す高校生たち──が重なる。どこまでか真実でどこまでか嘘なのか、そんな思案はできなかった。

 全てが真実だったのか?先入観に囚われた彼女の脳は、ただただ見つかりもしない友人の姿を探し求める。

 やがて一人の声が上がった。


『こ、こいつです!チャックルさん、こいつが今日の代金です!』

(ダイ、キン……?)


 ユッピーにはその音声が日本語に変換できない。


『この女が?本当かぁ?明らかに何も分かっていないって顔してるじゃないかね』

『そ、そりゃそうです!俺たちこいつに嘘ついてここまで呼び出したんですから!』

『じゃあ、そいつがビデオを持ってるのはどういうわけだね?」

『もちろん俺たちの指示ですよ!持ってくるように言っておいたんです!そうすりゃ秘密を守ってもらえますから!』

(秘密を……ビデオこれで……ドウヤッテ?)


 チャックルは椅子に腰掛けた姿勢でしばらくの間は疑わしげに男子高校生たちを睨みつけていたが、やがてポンと膝を叩いて立ち上がちながら言った。


『なるほどなぁ……よろしい!この私が安定した収入源も持たない学生なんかに何を期待してこんな覚醒剤モノを売りつけてきたのか!その真意を君たちは見事に読み取ったわけだ!若干、疑わしい部分もあるがいいだろう!何より支払いが豪華だしな!ウーフー!』


 その後のことはユッピーは記憶していない。

 だが、彼女が持ち込んだビデオには全て記録されている。


『なぁ、デッブは?あいつを代金にするって話じゃなかったのかよ……』

『バカ、チャックルに言われただろ、ブスは値引きするって。豊姫あんなヤツじゃ一円も見込めねぇよ。それどころか連れてきた瞬間、俺たち殺されるかも』

『でも……だからってユッピーが……』


 皮肉なことに、ユッピーを陥れた彼らを解放したのも他ならぬユッピーだった。

 彼女の『ジャンピング・ガール・ソング』が無意識に彼らを味方につけ、罪悪感を植え付けていた。

 彼らは二度とチャックルの元を訪れることはなかった。


『ユッピー、というのかね?本来であれば君の立ち位置は代金であって顧客ではないのだが、君との出会いをこれ限りにしてしまうのはあまりに惜しい。お近づきの印?初回サービス?いやむしろ私からの代金……呼び方など何でもいいか!ぜひこれからも会いにきたまえ!私もありったけの逸品を揃えて迎えるとしよう!ウーフー!』


 そうしてユッピーは覚醒剤を手に取ることとなる。

 豊姫とチャックルの繋がりが嘘であることは明らかになったが、もはやそんなことは大きな問題ではなかった。

 既にユッピーはチャックルから逃れられなくなっていたのだ。


『そうか、君も精霊持ちか!ますます気に入った!ぜひとも君とは長く深く付き合っていきたいものだなぁ!ほら、いつまで眠っているのだ?起きなさいユッピー!』






「起きなさいユッピー!」

「っ!!」


 チャックルの声で目を覚ます、ユッピーにとってそれは最悪な気分だった。

 だが目覚めた彼女を待ち受けていたのは、その“最悪”すら些細に思えるほどの地獄のような世界だった。


(…………ナニ、コレ?)


 夢の中で聞いた、ノイズだらけの自分の声を反芻する。

 炎に包まれた倉庫が巨大な提灯のように夜の闇を取り払い、射殺されたネズミ数十匹もの死骸を全て照らし出している。

 どこを向いても赤い色がユッピーの瞳に突き刺さる、そんな真っ赤な世界。

 それに加えて、炎の中から飛び出す小さな別の炎があった。

 ……火だるまになったネズミたちだった。

 文字通り、燃え尽きていく小さな命を目にするたびに、自身を繋ぎ止めていた細い線が削げ落ちていくのを彼女は感じた。


「君は爆風でふっ飛ばされたのだよ。運が良かったな、統和くんの方へ飛ばされていたらもう目が覚めることはなかっただろう」

「…………」

「何をぼさっとしているのかね?統和くんを倒しに行きたまえよ」


 チャックルの声が背筋をなぞる。

 視覚を覆う炎とは対照的に、聴覚に刺さるのは氷のような冷たい声。


「今更、首を傾げることもないだろう?私のために動く、それが君の役割だ。私と取引した時点でそういう関係になっているのだよ」

「なんで……」

「そりゃあね、私も君のカラダに未練がないわけじゃない。ただ、この関係が壊れて困るのはどちらかなぁ?より大きなものを失うのはどちらかなぁ?んん?君もそこまで馬鹿じゃあるまい?」

「うっ……うぅぅ……!」


 罪の道に染まりきったチャックルと、表向きは罪の欠片も見えないユッピー。

 わざわざ文字を並べて比較するまでもなく、最初から上下関係は決まっている。


「で、でも……倒すってどうやって?武器も作戦も他の小動物も、今のあたしには何も無い。何も無いのにどうやって倒せって言うの!?」

「……んんんー?」


 チャックルの眉がゆっくりと上がっていく。

 『君は何を言ってるんだね?』と彼の目が語っていた。

 ここに来て自分に頼ることしかできない弱音を吐く女へ向けた、困惑と苛立ちと失望の表情だった。


(あぁ、そうなのね。自分で考えろって。そんなザマじゃどっちにしても関係は解消だって……そう言ってるのね)


 ふらふらとした足取りでユッピーが前へ進む。

 どう見ても戦意は失っていた。


「自棄になったか?もう勝負は決しているぞ、ユッピー。さっき『オーディール・ドアー』の範囲に一瞬だけ入っていたみたいだしな」


 統和は精霊を構えながら言う。

 扉は消滅したが、精霊そのものはまだその姿を顕現させている。


(『オーディール・ドアー』が罪を、すなわちユッピーの“罪を犯す”という選択肢を滅していたんだ。もうユッピーにやる気は無い。だからといって放っておくわけにはいかないけどな、なんせあいつには裏をかかれた前例がある)


 無防備を晒すユッピーの方へ統和が歩を進める。


(ただ一つだけ懸念がある……いや、考えなくていい。正面から拳で殴りつける、それであいつは戦線離脱だ)


 精霊がゆっくりと拳を握り、振りかぶる。

 それで終わり。

 そのはずだった。


「やめようよっ!」


 水を差す声が一つ。

 統和も、ユッピーも、そしてチャックルも。この場にいる全員が虚を突かれ、動きが止まる。


「もうやめようよ……やめて帰ろうよ、ユッピー!」


 鉄府豊姫が立っていた。

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