第8話 闇の中へ
午後八時。
都心はまだまだ人で賑わう時間帯だが、その先端ともなれば寂しいものだ。
ここは利用者のいない廃れた港湾倉庫。静寂と暗闇が跋扈する一帯は、法の光も封殺される理想郷。
「ここか……」
車から降りた統和を潮風の香りが出迎える。
フローリアたちFBIの掴んだ情報によれば、この時間・この場所でチャックルが取引をすると言う。
「それ以上の情報はないのか?」
先程まで自分が座っていた席から黒いジャケットを取りつつ、統和は開きっぱなしの扉の先へ話しかける。
フローリアは表情を変えることなく答えた。
「奴の詳しい
「FBIの努力が水の泡。日本警察はアメリカからさんざんこき下ろされて、古御出さんが責任を被るってことになるのかな」
「それだけで済めばいいがな」
「お、脅すんじゃねぇや!」
運転席の古御出が上ずった声を上げる。
脅しではないだろうな、と統和は思った。
なにせ今から対チャックルに派遣される人員は統和ただ一人なのだ。アメリカ側からすれば非常識もいいところである。
もちろん理由はある。統和の精霊が無差別的なために他の人員を派遣できないのもそうだし、フローリアが嘲笑うように日本の警察機関が精霊に熟知していない実態もある。
「ちっ!俺をトカゲの尻尾にしようってんなら覚悟しやがれ!缶コーヒーの一つでも投げつけてやるぜ……蓋の開いたまだ飲み干してない奴をな!」
(やることが小さいな)
「おう、統和!頼むぜ!」
「頼まれてもなるようにしかならないさ。古御出さんは祈って見守っててくれ」
統和は耳に装着したイヤホンに手を触れながら言う。
先の路地裏の時と同じだ。今度は統和が映し、古御出とフローリアがそれを見る。
もっともこの暗闇では碌に見えるものではない。加えて肝心の端末は後部座席のフローリアが占有しているため、運転席の古御出が見守るには苦しいだろうが。
「あぁ、ちょっと待ちな統和」
「まだ何かあるのか?」
「い、いや……念のために聞いておきたいんだがな。本当にそれだけで良いのか?」
古御出が指出したのは統和の服装だった。彼が車から出して羽織った黒いジャケットは丈が膝上まであるものだった。
「適当に目に入った安物を買っただけだからな。サイズまで気にしてたら待ち合わせに遅れるし」
「お前のセンスに口を出す気はねぇよ。俺が気にしてんのは……」
手ぶらのまま構える統和に、戸惑いの混ざった口調で古御出が言いよどむ。
あまりにも軽装備なのだ。
「いくら精霊があるっつってもだ、その内ポケットまだ何か入るだろ?拳銃の一丁くれぇ大目に見てやるからよ、せめて──」
「いいんだ、これで。拳銃なんて俺が借りたところで何も変わらないさ。古御出さんも普段から言ってるだろ、そんな便利な道具じゃないって」
「それでも持たねぇよりかは……」
「それに警察官が一般人に拳銃を貸し出すなんて規則違反だ」
「だ、だが……!」
統和は背を向けて歩き出す。
それ以上の問答は無用だった。
大通りとでも呼べばいいのだろうか。統和は幅の広い道を進んでいく。
ぽつぽつと立っているだけの街灯は数歩先を照らすだけのあまりに頼りない光だった。明かりと言うよりは、この先に道が続いていると教えるための印程度の価値しかないように思えた。
道の両脇には閉じられた倉庫が並ぶ。倉庫の間には暗闇の通路があり、そこから先は窺い知ることはできない。
「ただでさえ暗い上に隠れられる場所が多すぎるな。こんな場所に潜伏されたら見つけられないぞ」
『
イヤホンの向こう側からフローリアの声が届く。
『奴が貴様を見つけても隠れてやり過ごしはせず、消しに来るはずだ。死んだ
「だといいけど」
『それとも貴様の
「いや、罪を滅する範囲には限度がある。せいぜいレストランの一画程度だ。そうでもないと社会全体が大混乱になるだろ?」
『
(フローリアにも後ろめたい部分があるらしいな、気をつけないと)
彼女の傍で扉を開いた瞬間、日本警察とFBIの間に大きな確執が生まれるかもしれない。
笑えない事態だった。
「…………」
しばらくの間、無言で歩く時間が続いた。
統和は周囲を見回すようなことはしなかった。
ときたま夜空を見上げながら溜息をついてみたり、失恋した若者のように落ち込んで見せながらチャックルの接近を待った。
(ネズミの鳴き声がするな)
耳だけは気を張っていたのですぐに気付く。
ゆっくりと顔を向けると、街灯の下で数匹のネズミがこちらを見つめていた。
統和と目が合うと彼らは慌てふためいた様子で踵を返し、倉庫間の通路へと逃げ去っていく。
(人がいる先には逃げ込まないか?けどこのまま何もしないのもな……)
足元に落ちていた物を拾う。石ころなのかコンクリートなのか、あるいは倉庫から剥がれ落ちた破片かもしれない。
ちょっとした出来心かのように振る舞いながら、統和はネズミの逃げた先へ向かってそれを軽く投げ込んだ。
「きゃぁっ!」
「っ!!」
ドラム缶にでも当たったのか大きな音が響いたが、それよりも人の声だ。
統和はすぐに走り出す。
(今のは女性の声だった!しかも若い!)
脳裏に浮かんだのは一人の女子高生の姿だった。
白上巡査の目撃した女子高生、鉄府豊姫。実は彼女が身を潜めて自分を狙っていたのではないか。そう考えると全身に緊張が走った。
「い、いた……た……」
声の主はすぐそこにうずくまっていた。
わずかに照らし出された人影に統和は手を伸ばし、相手の腕を掴む。
「やだっ!ちょっと!話してよ、この変態!」
その光景はもちろんフローリアの端末へと送られている。
エンジンを切った真っ暗な車内。古御出は窮屈そうな姿勢で後部座席を振り返りながら映像を注視していた。
「こ、こいつは……!」
街灯の下に引っ張り出された彼女の服装が端末に映る。
「統和ぁ!学生証と同じ制服だ!こいつが警察官を殺した鉄府豊姫だ!!」
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