十一月の路上に身を投げた月の夜だよ(30 雲壌/天地)

 吐いた煙草の煙がやけに白く豊かな気がして、どういうわけかとしばらく考え込む。頬に纏わりつく風の冷たさが少しばかり堪えるくらいになっていることに気づいて、もうどうしようもなく冬なのだなと今更なことを思った。


「西向く士、なんだよな。足が速くって困る」

「……用心棒かなんか?」

「語呂合わせだよ。水兵リーベみたいな。二月四月に六月九月、十一月」

「あ、三十日で終わる月か。十一はどうして」

「十と一を縦に足して、一文字。土の反対みたいな字でサムライって読むんだよ。士道不覚悟の士な」


 めちゃくちゃ強いんだろうなとふざけたことを言って、兄が煙を吐いた。やけに口元の火が赤く見えるのは、夜闇が秋よりも昏くなったせいだろう。馴染んだ煙草の匂いは、俺の吸わない種類のものだ。

 ベランダと部屋の境界に座り込んで、二人で煙草を吸っている。車の音も人の声も風の叫びも何も届かない、静かな夜だ。


「お前そうやって座ってると冷えないか、腹とか」

「立ってるとしんどいじゃん。それに、これだと空だけ見えて面白いよ」


 所々塗装が剥げた手すりの向こうには暗い空が広がっている。薄墨を重ねたような夜の中に、場違いなほどに明るい月が一つ。満月というには歪な形のそれは、時折過る雲に翳りながらもまた風が吹くたびに冷やかに夜空を照らしている。


 半身だけ室内に倒せば、点けっぱなしのテレビの画面が見える。

 右上に表示された23:45のデジタル数字──今日で、あと十五分で十一月が終わるのだ。


 十一月で終わりだと、ある首が言った。だから、この生首と十二月の約束をした。終わらせるのが嫌になったからだというのは、あまりに直接的だろう。

 何かを言うべきなのだろうかと考えて、思いつかずに煙を吐く。揺らぐ煙はすぐに周囲の闇に溶け失せて、一息分だけ沈黙を埋めてくれる。

 最初の頃にもこうしてベランダで煙草を吸っていたことを思い出す。あの時も兄とこんな具合にくだらない話をしていたはずだ。

 たかが三週間ほどしか経っていないのにひどく遠い夜のように感じられて、俺は闇に溶けかかって朧な爪先を眺める。


「なあ」


 呼びかけられて反射的に声の方へと視線を向ける。

 隣にいたはずの兄は手すりに乗って、夜空を背負ってこちらを見下ろしていた。


「……え、何。つうかどしたの、そんなとこ上がって」

「一応ね、これは言っちゃいけないとは教わってきたんだけど」


 でもお前弟だからさと兄が言う。

 夜闇に翳った顔の中で、双眸が細まるのが見えた。


「とりあえずさ、やってできないことはないんだよ。それは俺としては保証しないといけない。だけど、それがいいことだとは思えない。少なくともお前にとってはさ」


 雑談の続きだと思いたかった。迂遠で過剰な物言いなのは兄の癖だろう。こんな曖昧な物言いで、不安になる必要なんてないはずだ。

 何が、と問おうとしたが喉に煙が張りついたように声が出なかった。

 兄は微動だにしないまま、口元を微かに歪めた。


「是非の話じゃないんだよな。善悪でもない……可不可の話になるんだろうな、きっと。それだけならシンプルだけど、だからって余計な苦労を背負い込むのを見たくない程度にはさ、何かしらあるんだよ、きっと」


 静かに兄は語り続ける。背後には月が、満月から僅かに削れた青白い月が貼りついている。


「十一月だけって話ではあったんだ。それは納得ずくだったし、それで文句はないはずだった。結構、楽しかったしな」


 十一月はもう少しで終わる。そうしてまだあんたはここにいる。十二月の約束もある。それなら何の問題もないだろう──。

 そう言って手を伸ばして引きずり下ろせばいいだけだろう。相手は手も足も出ないはずだ。

 それなのに、俺はただ手の施しようもない末期を看取るように座り込んで兄の言葉を聞くしかなかった。


「花に嵐のたとえもあるぞ、っていうのは幾らなんでも陳腐だよな。第一もう冬だ。近場じゃ訳ありの椿ぐらいしか咲いてない。夜に嵐じゃ人殺しだ」


 口元の赤が、朽ちかけた星のように昏く赤く明滅する。


「──兄さん、」

「でな、兄ちゃんとしてはな、お前は出来る限り忘れてしまった方が幸せになれると思うんだよ」


 ようやく呼べたその一言こそ聞きたかったとでもいうように、言うべきことを言い終えたかのように、兄は躊躇なく背後の夜空に身を投げた。


 心臓がやけにゆっくりと五拍を打った。呆然としたのは、それだけで済んだ。

 立ち上がり勢いのまま手すりを掴んで身を乗り出す。三階から見下ろすアスファルトの路面はただただ黒い。

 目を凝らしても兄らしきものは残骸さえ見えない。


 どうしようもなく周囲を見渡せば、視界に微かな色が目についた。

 ベランダの冷えたコンクリートの床、その上に火の点いたままの煙草が落ちていた。

 吸うものもいなくなった煙が、ただゆらゆらと手向けのように揺れている。その先に灯る火が、ゆっくりと暗くなっていく。


『──が、明日が来るのをお知らせします』


 点けっぱなしにしてきたテレビの音声が、やけに大きく聞こえた。

 周囲の闇が一際濃くなったように見えて、空の月を見上げる。蟠っていた雲が風に流れて、痘痕塗れの青白いかんばぜを覆っていた。

 手にした煙草はじりじりと短くなっていく。俺は頼りなく立ち昇る煙を呆然と眺めながら、十二月の闇に一人、立ち尽くしている。

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