マンション、たそがれ、机の生首(28 かわたれどき)

 目を覚ました部屋の中は古びた血をぶちまけたように昏かった。


 部屋の気配からして夕方は過ぎた頃だろうか。日は沈んだばかりなのだろう、まだ微かな夕日の残滓が端々に滲んでいる。短い夢をいくつか見たような気がするが、どれもこれもよく覚えていない。

 丸一日眠っていたとなると、それなりに体はダメージを負っていたのだろう。

 一日を寝潰した甲斐もあって、昨夜のような悪寒や怠さはない。ひどく喉がひりつくのは水分不足のせいだろう。何せ水も飲まずに寝ていたのだ。

 枕元には手つかずのペットボトルが転がっている。キャップを開けて渇いた喉に流し込めば、淡い甘みが渇いた粘膜にじりじりと染みた。


「もう起きていいのか、起きてくれたのか、お前」


 声がした。

 ボトルを手に持ったまま、いつものように視線を向ける。

 案の定、いつもと同じようにテーブルの上に首があった。


「ありがとう、兄さん。一日寝てたから大丈夫だと──」

「本当に心配したんだ。よくないだろう、弟が苦しんでいるのに平気な顔をしている兄っていうのは、な?」


 こちらの返事を待たずに、首は言葉を続けた。

 語るというより呟くような声に気圧されて、俺は黙り込む。

 机の上の首は微動だにしない。部屋は夕闇に覆われて、何もかもがぼやけている。首の顔は影に黒々と塗り潰されていて、こちらを向いているのかどうかも分からない。


「今回は大事に至らなかった。、そう言ったほうがより正確だ。勿論知っている。そんなことも分からずにいられるほど安いものじゃあないんだ、兄ってもんは」


 語っている内容は聞き取れるが意味が分からない。うわごとというには文章が成立している。声はただ淡々として、感情など一滴も滲んでいない。

 兄さん、と呼びかけるだけのことがどうしてもできずに、俺は微かに痛む喉を押さえる。その一言を口にするのが躊躇われる、というよりただ恐ろしかった。

 本当にこれは兄だろうか。

 声を聞けば分かるはずだろう。聞こえている声が別人だとは思えない。けれども確実に兄かと言われると頷くこともできない。黒い首の声が僅かに掠れているせいもあるだろう──それ以前に、兄の声を俺は正しく覚えているのかと不安になる。あの生首の声を聞くようになってまだ一か月も経っていないのだ。

 他人と過ごすには長すぎる、家族としては短すぎる。ましてや生首の兄は家族でも他人でもない、曖昧な相手だ。


 低く、咳き込むような笑い声が響いた。

 薄闇はいよいよ夜に近づき、錆のような夕闇に浸された部屋は、冷やかな黒に塗り潰されていく。


「血の繋がりがあるからこそ迎えた悲劇もある、他人だからこそ到った惨劇もある。ただ共に終わるというなら、それは喜ばしいことではないのか。弟がどうなろうとどこへ行こうと、兄はその先で待っていることしかできないからな」


 呪文じみた言葉が連なるたびに、部屋は暗さを増していく。

 顔を確かめたい。確かめなければどうにもならない。

 近づけば見えるはずだ。手に取って、そうしてこれでもかと顔を近づけて、そうすればきっとこの生首が俺の兄だということを信じられるだろう。

 ベッドから立ち上がろうとした途端、


「馬鹿!」


 背後から大声と共にひどい衝撃が頭に加わって、俺はなすすべもなく床に墜落した。


***


「床で寝るなよ病人。布団、暑かったのか?」


 照明に白々と照らされた部屋。その照明を背後に、机の上に陣取った兄がこちらを覗き込んでいた。

 体の半分がやけにひんやりとする──しばらくして自分が床に倒れているのだと分かった。


「兄さん」


 呆然として呼べば、兄は眉をしかめた。


「声ひどいな、がさがさだ……俺が帰ってきたら、お前床に落ちてんだもの」


 明かりも点けっぱなしだから驚いたよと兄が小さく飛び跳ねた。


「兄さん、出かけてたの」

「一時間ぐらいな。どうしても顔出せってうるさい相手で……本当に顔だけ出して帰ってきた」


 具合悪いのに済まなかったなと兄が傾く。俺は大丈夫だと首を振った。


「どうする。おかゆぐらいなら俺でも作れるけど、それよかレトルトで何か食うか」

「おかゆ作れるの兄さん」

「そりゃお前、米煮るだけだろ。できるよ」


 調理法ではなく動作方法を尋ねたのだが、兄には通じていないようだった。

 本当にできるのかもしれないが、任せて火傷されても怖い。バリアフリーでもシステムでもない学生向けマンションのキッチンだ。生首じゃなくても使い辛い。


「いいよ、そこまで調子悪くないから……米炊いておにぎりでも食うよ」

「おにぎりでいいのか」

「だいぶ良くなったし、腹は減ったから。おかゆだと足りない気がする」

「そうか。──食欲があるんなら、よかった」


 机の上に乗ったまま、兄が笑う。その光景に胸がざわついた。

 

 いつもの兄の定位置と言えばそれまでだ。この一か月間、兄は大抵この机に乗って、特に面白味もない日常を共有していたのだから。

 部屋の照明は点いている。すべては光の下に曝され、何の変化もない学生マンションの一室と生首と俺は凡庸な現実に存在している。

 それでも──微かな頭痛と共に、俺は赤の滲む薄闇を思い出す。


 ふとあの夕日の中掠れた声で笑った首の真っ黒な影が重なった気がして、俺は兄から目を逸らした。

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