首を抱え遠い故郷を思い出す(26 故郷)
すっかり遅くなってから着いた実家の玄関を、待ち侘びるように淡く柔らかな明かりが照らしていた。
久々に使う合鍵を差し込めばあっさりと玄関が開く。チェーンは掛かっていないようだった。
出迎えの声は聞こえないが、そのまま靴を脱いで上がり込む。
明るい室内には誰もいない。父も母も、隠れている気配すらない。笑いさざめく声が聞こえる方へと向かえば、居間でテレビが点けっぱなしになっているだけだった。
風呂場から水音がした。
風呂の浴槽が溢れたような、重たいものを沈めたような、そんな音だった。
慌てて風呂場へと向かう。脱衣所には当然のように何の痕跡もなく、給湯器の運転音が耳鳴りのように響く。
風呂場には明かりが点いている。薄い扉の向こうで、もう一度水音がした。
扉に手を掛ける。
「止めときな。危ないから」
左肩に重みがのしかかり、窘めるような声が耳元で囁いた。
***
故郷の話をしたせいだろう。実家に帰る夢を見た。
思い出せる範囲からすると、恐らくは悪夢に分類されるだろう。怖いものは出てこなかったが、あのまま目が覚めなかったらきっとろくな展開にはならなかった。
夢はさておき、起きてから洗顔と寝間着から部屋着への着替え以外に生産的な活動をしていない。ベッドに座り込み壁にもたれたまま、だらだらとスマホで特に興味も惹かれない記事や写真を眺めている。兄は兄でいつから起きたのかは知らないが、いつものように机の上に陣取り、教養番組と娯楽番組の中間のようなどっちつかずのバラエティを眺めている。
首も人も休日の午前中を怠惰に使っている。有意義かどうかを尋ねられると分が悪いが、日曜日くらいは自堕落に過ごしたところで文句を言われる筋合いもないだろう。平日は勤勉と胸を張れるほどではないが、それなりにまっとうに生活している。その分の休憩くらいはあってもいいだろう。
『
聞こえてきた
テレビにはのどかな田園風景を背後に、聞こえたフレーズが装飾的に記述されていた。俺でも知っている詩の一節だ。
「これいっつも思うんだけど、故郷って遠いと不便じゃない?」
「里帰りとか頻繁にするならそうだろうな。でもあれだ、この詩後半結構あれだから」
「あれなの」
「『知らん土地で物乞いになったとしても帰ろうなんて考えるもんじゃない』みたいな」
「関係が上手くいってない人じゃん」
「不義理がある感すごいよな。もしくは恨みとかあるんだろ」
兄はテレビを見つめたまま続けた。
「一度離れて思い出になったら、そのままにしといた方が無難ってのもあるんだろうな。思い出、いくらでも美化できるから」
兄の言葉に、自分の中で該当しそうな例を探るがいまいちぴんとこなかった。俺が鈍いせいだろうか。それとも二十年生きたくらいでは分からないということなのだろうか。
とりあえず会話を続けようと、聞いたことを雑に噛み砕いてから返答を出力した。
「……よく分からないんだけど、故郷を一回出たら二度と帰んない方がいいみたいな話?」
「まあ、詩の内容は極端だけど。別に普通に帰れるうちは帰っといた方がいいんじゃないのか」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
兄は前方に深々と傾いてから、
「帰りたくても帰れなくなることだってあるからな」
そうなると手遅れだからな。
そう呟く声はいつもと変わらない明るさだったので、表情は見ないでおこうと思った。
十一月は残り僅かだ。対象の不明な期限だけを突きつけていった弛んだ頬の生首を思い出す。十一月が終われば何があるのか──俺にそれを知る術はない。
可能性のひとつについて考えることが増えた。気まぐれに現れた
そうなったときに俺はまた日常に戻れるのだろうか。兄のいない十二月を、その後の生活をどんな顔で過ごしていけるのか。
答えは出ない。兄にも尋ねられない。だから俺は何ともない顔を取り繕ったまま、執行猶予じみた十一月の残日を過ごしている。
「──止めときな。危ないから」
聞こえた言葉に、スマホから顔を上げる。
兄はひどく驚いた顔でこちらを見ていた。
「どうした、すごい勢いだったけど、首痛めるぞ」
「いや。今、兄さんがなんか言ったから、びっくりして」
「何か喋ったか、俺。覚えがないけど……独り言だったら悪かったな」
少しだけ前に傾いてから、
「けどそうやっていきなり動くの、止めときな。危ないから」
病院行きになったら面倒だろうと笑う兄に、俺はぎこちなく頷き返す。口調も声も何もかも、夢で聞いたものと重なってしまった。そのことに不穏な意味を見出しそうになる自分から目を逸らす。曖昧な相手に根拠のない不安をとりつけたところで、出来上がるのは疑念の違法建築だ。崩れたら大惨事になるだろう。そんな終わり方は、嫌だ。
あるはずのない肩の重みまで思い出してしまう気がして、俺は左肩を強く掴んだ。
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