首が行く(15 猫)

 大学からの帰り道、猫の声が聞こえた。

 周囲を見回す。音量からしてそう遠い場所にはいないだろう。このあたりで猫を見かけたことはないが、野良が居つきでもしたのだろうか。

 ぐるぐる歩き回るうちにふと視線を感じた。上の方からだと直感して、そのまま視線を上げる。


 夕暮れの薄闇、その中でざらりと黒いコンクリートの塀の上。

 陣取ってこちらを見つめる生首と目が合った。


 黒々とした双眸は街灯の光にぎらりと光る。底光りする昏い目が、確かにこちらを見た。


 にゃあと猫とも人の赤子ともつかない鳴き声が、生首が開けた口から零れた。


 すぐさま背を向けマンションへの道をわき目も振らずに走り、玄関の鍵を開けるが早いか倒れるように転がり込んだ。


「なんだなんだ何があった無事か」


 どうしたんだと心配そうな声を上げて部屋の奥から転がり出てきた生首に答えようとしても、喉から吐き出されたのは乾いた咳だけだった。


***


「そりゃ野良首だよ」

「野良首」


 玄関先で切らした息もそのままに座り込んでいたところ、それなりに焦った顔をしてごろごろと転がり寄ってきた兄は事情を聞いてからあっさりと答えた。


「首にも色々あるからな、そういう……まあ、個人の趣味みたいなとこもあるから、あんまりどうこう言うのも行儀が悪いんだけど。だからって人脅かしていいわけじゃないしな」

「すげえびっくりした」

「だろうな。俺もびっくりしたよ、すごい音したから」


 こないだみたいなことになったら大変だもんなという兄の言葉に、このところ遭遇した異様なものたちのことを思い出す。複数あるので兄が意図しているものがどれかというのが疑問に思えたが、それぞれ口に出して確認するのがそれなりに恐ろしくて、俺は代わりのように長々と息を吐いた。


「何なの、その、野良首ってのは」

「野良の首だよ。こう、ただの生首」


 目の前のと何が違うのか分からずに、しばらくじっと見つめてしまう。

 兄もこちらの疑問には気づいているようで、考え込むようにふらふらと揺れてから口を開いた。


「なんて言えばいいかね。やることとか拠り処とか、そういうもんがないやつっていうか……絶賛フリーター、みたいなもんかね」

「生首のやるべきこと」

「『べき』つけると重たいな。やることっていうとなんか壮大な感じがするけど、そこまで大したもんでもない。例えばお前だって、駅でただ突っ立ってたら暇そうな若者だけど、そこでスマホでも弄ってたらどうだ」

「スマホ弄ってる暇そうな若者」

「うん。……まあ、そんな具合でさ。『スマホ弄ってる』っていう状態がつくわけじゃん。じゃあまあ、全くのフリーってわけじゃないんだよ」


 分かるような分からないような、詭弁というより屁理屈じみたことを言いながら、兄は勢いよく右に傾いた。人でいえば首を傾げたようなものなのだろうか。


「何にもないとただの生首になるからな。だから野良首ってのは一歩手前なんだよ。猫の真似なり通り魔なり、何でもいいから何かしらを為せないと、いずれはただの首になるから」


 兄の言葉になんとなく胸がざわついた。

 ただの首、それは死骸というものではないのか──そう口に出しかけて、寸前で思いとどまる。事実かどうかはともかくとして、兄を、生首を前にして発するにはあまりにも気遣いの欠けた物言いになる気がした。


 兄はまた床に垂直に立って、気まずそうに何度か瞬きを繰り返してみせた。


「まあ、俺は少なくともお前の兄だからな。だからこうして偉そうなことが言えるってだけで、そもそも派閥によっては生首が何かを為すことを強いられること自体が体あるものの傲慢だとか、そういうやつらもいるから。俺の言ってることが全部ってわけでもない」

「何の話かよく分かんないんだよ兄さん」

「うん。俺も途中から分かんなくなってる」


 一番大事な問題を忘れそうになっていた。俺は小学校の授業のように、片手を小さく上げた。


「とりあえず野良首については俺はどうすればいいの」

「必要以上に怖がる必要はないよ。関わる必要もないけど」

「いいの」

「だってお前、関わってこれ以上増やしてどうする。俺の弟ってだけで十分だろう」


 まだという兄の問いに首を左右に振る。平穏に生活したいだけの人間としては、ややこしい因縁や関係などは少ない方がいい。相手が生首だろうと人間だろうと変わらない。

 兄は俺の顔をしばらく真正面から見つめてから、


「生首にも色んなやつがいるんだよ。世間っていうのはそういうもんだ」


 と言ってから、やけに上手い猫の鳴き真似をしてみせた。


 得意げな顔と先程の塀の上で見た黒々とした目が一瞬重なって、俺はとっさに兄に手近なダンボールを被せた。

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